哲学とは学問の総称であり、知恵を友愛するというギリシア語philosophiaの訳語だから、これを特定の学野と勘違いしている人は単に語源からくる定義を知らない。自然科学や数学の一切も哲学の部分でしかない。
一部の実証主義者が形而上学、後自然学を無用の長物と悪罵している理由は、これらの人々がコペルニクス的転回以前の哲学的認識しかもっていないからである。いいかえれば倫理的認識は当為を追究する理想的、観想的、総合的な働きであり、形而下学、物理学に見られる既にある自然現象を分析したり、その法則性を応用して将来を予想する検証作業とは学問の方法が異なっているのに、後者の一部の根拠となっている実証性を、当為についてもあてようとしているからだ。つまりその様な人は認識が混乱しているに過ぎないし、自然学を含む学究作業というべき形而上学に関する認識が不足しているだけなのである。この様な認識上の錯誤は儒家と法家の対立の時代から程度こそあれみられたが、コントの定義した実証主義以来、特に自然科学者における誤認は専門分化の深度と共にますます混迷していて、不道徳さを正当化するところまで行き着いている。技術が非人道的な結果や公害を大いにもたらしているのは、自然科学者や工学者らに、あらゆる科学的認識を含む形而上学の意味を認識する能力がないからだし、哲学からはじめ哲学で終わる、という根本的な教育のよさが見逃されているからである。
科学とはラテン語における知ることの意であるscireから派生したscientia、即ち知識の意味をもつラテン語の和製漢訳語であり、本質的に知恵を友愛するという態度全体を示す哲学と異なる部分を持つ定義をもたされているものではない。科学は哲学の部分であり、哲学は科学の総称だ。倫理や心理、社会についての学は自然についての学の後に形而上学と呼ばれてきた分類に属し、決して哲学のみに属するものではない。あらゆる科学を前提知識として必要とするという意味で、最も高度な学問段階に属する倫理学も知識、即ち科学の一部だからだ。そして信仰に関する思想史の一部という意味で、宗教学は倫理学の一部である。つまり宗教は知識、科学の一部であり、科学と対立するものではない。宗教学は他の形而上学と同様、必ずしも実証的でなく、当為的な部分が含まれているだけである。