司法やマスコミ、ネットを含む情緒的世論において疑わしきを罰する日本人らは中世程度の政治的民度だという事はまちがいなく、国連に指摘されるまでもなく差別制度の名残に過ぎない天皇ならびに皇室を政教分離せず象徴として仰いでいるのでもそれを再確認できる。日本人一般は容疑者という無罪の者への魔女裁判をなんとも思わず、有罪未然の者を閉じ込める留置所を代用監獄にしている人権侵害国家という国際的批判の尤もさは語るまでもないし、首相の不正は忖度という謎の悪意で隠蔽してしまいさえするのだ。同様に、日本人一般に政党政治は理解できていない。だから一党独裁あるいは寡頭政を多党政や二大政党政より優先しているのである。勿論、彼らに国会は形式や建前としか理解されておらず、議会主義はない。これゆえに多数政党の横暴、いわば衆愚政が少数意見の尊重という基本的な多数政の意義より優先されているのだし、監視機能としての二院制における上下の多数政党が違う事を否定的に解釈しねじれと呼んでいる。また日本人一般は多数決の原理を正義と混同しており、少数者が正しい可能性を完全に無視してしまう。これらの数々の低民度より更に驚くべき事は、日本人民衆は言論の自由を理解してさえいないので、当時の政権に対する批評を己の意見と違うというだけで全く無意味に弾圧して平気でいるし、それをファシストそのものであるサイコパスの自民党総裁兼首相(安倍晋三)が報道機関に圧力を加え具体的に行いさえしている。この人物が立法府と行政府の長を混同しているのは、単に愚物であるというだけでなく、その種の愚物を総裁に選出してしまう自民党員ならびに自民党に投票した日本人らに、中世程度の政治的理解度しかないからである。だから日銀や年金機構が日本株を寡占し、事実上の国有化による共産主義政策を実行し、或いは日夜市場干渉で自由市場の効率性を損なっていても疑問にも思わないというのは、日本人の政治的民度が低いから、としかいいあらわしようがないものだ。
これらの驚くべき欠陥、近代未然というほかなく恐ろしく低い政治的民度が、日本人一般を、場の空気というその場その場での多数世論のファシストにしている。この様な落ち度を改善する方法について、日本の知識人らは真剣に考慮し、教育及び啓蒙上の工夫を可能な限りくり返さねばならないのだろう。