2018年3月23日

進歩史観の批判的考察

この世で多数を占めているのは常に俗人であり、だからこそ性欲によって子孫を繁殖している。人類の中でより卑しい人、大脳新皮質が未発達でより利己的な人ほど単なる本能を自己制御できず人生の早い時期に繁殖する。最も尊い人々はこの生という営みが空しく、苦痛を避けられないと悟って生殖を否定し、少なくとも生ある人々の苦役を和らげようと試みて死ぬ。よって、この世では卑しい人ほど殖えやすく尊い人の数はますます少なくなる。
 社会進化論はダーウィンが『人間の由来』で考えていたよう人類が道徳的にも進歩するという前提のもと考えられている時、このため明らかに間違っている。一方、犯罪率の漸減にみられるよう、人類はより卑しい人ほど殖えやすいにも関わらず当時の法秩序に多少あれ順応せざるをえない。人類は刑罰という苦痛を避ける為に犯罪を結果的に行わなくなっていくのだが、立法は寧ろ一部の賢者によっている。
 全体として、比較賢者が秩序化しようとした或る最低限の道徳規範が、ますます卑しくなる人類を、少なくとも表面的には進歩させているかの様にみせている原因である。社会進化論は或る社会が法によって道徳規範を変化させていくことを、進歩と勘違いしただけだった。実際、性に関し許容される不道徳の領域を拡張していった規範とか、相続財産を含む資源の寡占の状況、古代になかった身分差等は法規自体が寧ろ堕落した結果とも見なせる。西洋主義や米国主義であれ国粋主義であれ、進 歩史観の類は工学や自然科学、数学といった一部の学問における一定の積み重ねが、新たに高度な難題を付きつける段階的構造を比喩にして、中華思想や帝国主義の中で自文化中心主義とそれら学群が類比され信じ込まれた幻想であり、実際には単に、社会の変化と人類の堕落がみられるだけだ。
 人々が道徳的に進歩する、という事がありうるなら、それは法規範の根源に、知り得た以前の社会全てへの批判的考察があった上でつくられる法秩序において、すなわち過去の全矛盾を持ち上げた社会においてだろう。このことはある社会単位で立法に最低限度化された、哲学の種類と解釈できる。自文化中心主義や中華思想、帝国主義、ヘーゲル思想、国粋主義、結束主義をもっている集団で、多文化主義や文化多元主義は根本的に除外されているが、別の単位では多様性が当然の前提にされている。この違いはそれら集団における立法者の哲学によっているのであり、議員制により複数の立法者がいるとき、その人々の意見がある社会の秩序や規律を定義する。いいかえれば、最も模範的な社会は、同時代を含む過去に存在した全矛盾を止揚する必要さを満たした立法者がいる社会であり、その程度は或る社会の哲学者の学問的能力、知恵の次元に依存している。理論が軽蔑されていたり、言論の自由が制限されている集団に、社会秩序の改善は先ず不可能である。