2017年9月26日

生命論

ごみみたいな害獣が見にくくも発情してふえている。要するに女など害虫の様なものだ。脳内にあるのは妄想と利己心だけ。そんなごみみたいなものがふえている。絶滅してほしい。
 繁殖など何一つ美質がみいだせない。僕の知る限り人類は非常に醜い。そして恐ろしく悪質だ。他の全動物についても同じ様なものだ。
 生物の繁殖欲を美化したイエスは馬鹿だ。世界で最も醜く邪悪な性欲を、不倫の子が自己正当化の為に偶像化した。そんな錯誤に立脚しているキリスト教も救えない。信者共が獣類同然の一夫多妻の教義を持つイスラム教を軽侮しているとして、イエスの下種さはそれを非難できるいわれではない。
 この世で最も望ましく、人間としてましな存在といえるのは、大脳新皮質が厚い為に純潔以外かんがえられない脳の持ち主だ。勿論自分もその一人だ。だから自分には大抵すべての人類は猿未満のばかにしかみえないし、実際にそうだ。大脳を発達させていながら小脳に属する欲望に打ち負かされて生きている様な存在は、猿未満なのだ。特別な事情がないかぎり、二度と繁殖しないこと、二度と性欲という過去の類人猿がもっていた野蛮な本能によって生殖しないこと、これらはまったく正しい。
 ブッダの前半生は王子の身分ゆえに不埒だったろうが、後半生は幾分ましになった。だがはじめから清浄である私の様な人物の方がすぐれた一生である。生命が他の生命の犠牲のもとでしか生存できない、罪深い存在でしかない以上、できるだけ速やかに生殖を否定することは当然だ。問題はその後、生ある内なにをしたか。
 自殺は他の多くの生命にとって朗報だろうが、食物連鎖全体を消滅させるには及ばない。全生命の絶滅。それが
なしうるに越したことはない。地球を一瞬で消滅させることができれば、それが最善だ。それだけの力がないとすれば、同類のうち、愚かならぬ人々に死の高貴な意味を知らせるだけで十分だろう。できれば生存している人々の愚行である、競争や搾取や戦乱や闘争を諌めるべきだろうが、同時代にいる人々があまりに愚かならそれは不可能だ。人々に望むこと少なくあれ。
 死体が灰としてわずかな有機物となってからも、他の命は食物連鎖をつづけるだろうが、それらの全滅や存続について、人の手が届かない範囲に思いをよせるのは無意味だ。生より死に安らぎを見いだすなら、それは知恵ある者の証である。大脳が単に個体の死を悟っているのみならず、生存している個体が醜悪な利己心で繁殖してきたことになんの美質もみいだせないからであり、いわば地獄からはうまく逃れ出た人が最も賢いのと同じである。
 脳の中の新奇性に反応した快がどれほどあっても、単に脳内現象でしかない。だから永遠の生には客観的な価値はない。生存に価値をみいだそうとするのは、繁殖に関わる埋没費用を合理化するからでしかない。脳細胞の一部に司令され再構成される生命体の延長には、単なる自己分裂しか現象的意味がみいだせない。細胞分裂が複雑化していくこと。それに神聖さなど元来ない。エントロピー増大は性欲の延長にある審美感覚だとか、技術的な可塑性からくる快適さへの期待だとか、集団との道徳的関係による前頭葉の満足だとかを脳内にもたらすが、それらはコップの中の嵐だ。全宇宙の消滅ですら、大した問題ではない。死を認容するだけではなく、死という希望の成就のみが意識という経験的な労苦を離脱させる。涅槃、無欲、Nirbanaという言葉でブッダが示そうとした状態は、有余涅槃において人の本能面を最小化しようとするので、それが大脳的で哲学的な倫理人の態度を維持させる誘因になるかぎりで正しい。つまり節制には内省的で瞑想的にさせる部分があるということだ。
 倫理的言行は前頭前野が発達した個体にとって合目的な快であり、対他的に最善な人格を意味する。繁殖や経済力や政治的地位を有価値と思っている人々は、この脳部位が比較未発達である。最善人である意味は、前頭葉でしか認知できないからだ。