2017年8月12日

政治学

宗教として、政治思想はどれも単なる宗教なのだから、どの主義も考え方も政教分離の原則にのっとれば政治家が持ってはならない物となる。政治家は特定Ideologieに奉仕する者であってはならず、特定宗教を政治と混同してもならない。
 もし上記の措定が正しいなら、例えば自由民主主義、つまり自由経済(市場放任)と民衆政(多数政治)の結合という考えに固執する政党、この組織も又ただの不正な癒着的宗教団体でしかない事になる。
 政治が或る考え、或る主義に奉仕するもので在るべきではない、在ってはならない、という命令は、政教一致、祭政一致の政治体制が思想、良心の自由を侵害し、致命的な失政として第二次大戦の敗戦をもたらした事を反省材料にしたThese、前提条件である。ここから言えば、政治(乃至、財政を含む経済)思想への固執も、この反省が与えるべき不偏不党、或いは反イデオロギーの態度から遠いといえる。具体的には資本主義経済だとか自由主義、共産主義、無政府主義、社民主義、民社主義、社会主義、先住民主義(或いは逆に移民主義、混血主義)、民衆政治(多数政治、democracy、或いは共和政、republic)だとか、fascismやNazism、新自由主義、libertarianism、いうまでもなく神道や創価学会や天皇制度、宗教原理主義への固執も、これらはどれも考え方としての宗教、宗派、信仰と政治を一致させようという態度に他ならず、どれも政教癒着、政教一致の類型でしかない。これらの思想や主義、考えに信仰的なり狂信的な態度、例えば多数決が正義だと信じる様な態度をとる人は、紛れもなく狂人か洗脳済みの犯罪者そのものである。単に愚かだという次元を超えてこれらの人々は悪魔崇拝的なのであり、その公害、有害、他人への押し付けがましい間違いの強要は危険とか害毒をこえて具体的な重犯罪である。端的にいって、政治があらゆる特定の考えから、地域nationalismの様なものからも含めて、自由になり、利害関係の調整を純粋かつ公平に行える様になる事が望ましいのだが、それには政党政治は完璧に有害でしかないのである。
 だから国政にあっても、県政や市政同様に指導者を直接えらぶ、大統領公選制が行政について正しいのである。政党という集団をまとめる特定の考えはどれも宗教、信仰、宗派の偏向、片寄った利害集団への肩入れに他ならず、むしろ代表を含む行政人がこの種の集団的利害関係に属する事は単なる過ちであって、有害でしかない。ここからいえば二大政党制も、一党独裁制(一党優位制含む)や多党制同様、根本的に政教癒着の擬制でしかありえない。日本の場合、天皇が進講等の名目で三権の長はじめ全国の政治要人と癒着し絶えず圧力を加えている上に、国税に寄生、かつ退位法の如くに国政へ直接命令も加えている事実がある限り、天皇追放が正しい国政の前提となる。大統領公選制が独裁制にならない為に、任期を限る再選禁止の法制が最も合理的かと思われるだろうが、このやり方では傑出した君主が再選されるという公選王政の可能性を排除してしまう。つまり独裁制の防止には公選による選挙権の維持で十分なのであり、寧ろ選挙の匿名性の担保と、棄権を含む選挙権の一人ずつの平等が保たれねばならない。公徳の低く判断力の欠けた民衆の元で公選すると、衆愚の長として愚かな独裁者が選ばれる可能性があるため政党政治の方がましと考えている人は、この特定政党が更に宗派内権力闘争の末に公徳のある人物を選びうるという保証がない事を見逃しており、さらに、この種の衆愚が信じる考えも愚かなものに違いないのだから、どちらにしても民衆の公徳の程度にふさわしい長しか選出されえない事には変わりなく、しかも宗派に片寄る場合が避けられるだけ公選制の方が政党制より望ましい事になる。
 もし平成時代の日本国政に話を限れば、天皇家や安倍家、麻生家、小泉家などの世襲政治家は国政での既得権益の維持促進に神道団体(日本会議や神道政治連盟、神社本庁含む宗教団体)や自由民主党を濫用していたのであり、これらは彼らの一門が当時不正の温床になっていた証拠以外なにものでもない。これら宗教団体、宗派、政党はすべて解体され、自民党が薩長藩閥に由来した既得権益の故に派閥を形成して天皇家と癒着し行ってきた不正政治の一切は、暴かれ裁かれ、国政から神道団体長としての天皇家もその他の自民党関係者も、永遠に放伐されねばならなかったのである。