人類に意識が生まれて以来、人類はより神的なものを目指し、また部分的にそれを達成した者が現れた一方で、大多数は動物以下の程度の侭だった。人類がなろうとしている存在を神、或いは仏、聖者という。これらの特性を持たない衆愚、大衆はみな動物との中間存在にすぎず、かれらには聖なる性質と獣なる性質のグラデーション、階調がみられるだけである。人類が目的としている存在に漸近していればいるほど、かの人格性は偉大である。成る程、下劣な衆愚、大衆層の卑陋さは少しも変わりがない。しかしそれは、衆愚の繁殖性がある限り常駐的な現世の有様だという事ができよう。
人類は偉大さをめざし、実際偉大になる事ができる存在である。燕雀と鴻鵠の志は違うが、質的に偉大な人類を理解できるのも質的偉大に近い人類の側だろう。
人類は利己的なほど邪悪であり、利他的なほど善良である。この点で商業のみの達成では、永遠に大衆化を免れない。そして利得に関わる限り、商人は常に多少あれ邪悪たらざるをえない。人類の目的にとって、必要を超えた利得は全て有害、といえよう。必要に満たない利得しかない存在も、つまり自己犠牲的な存在も、清貧の度合いが高ければ高いほど聖なる性質に漸近していくだろう。質素より清貧はより偉大だ。
皇族や王族の様に徴税商に特化した存在も、同様に理解できる。即ち利得的である皇族は賎しい。日本人の全てより贅沢している皇族は、かの国で誰より卑劣な存在なのである。