2015年10月11日

美術論

自分自身の為に作られたのではない美術は、どれも工芸品に過ぎない。この場合の工芸は応用芸術でしかなく、人々に心理的あるいは感覚的影響を与える為だけのものではなくなっている。純粋美術という概念、我々はこの極度の重要性に無自覚である。しばしば美術が魂の救済、精神の浄化といった効果を持つのはその様な機能に特化した形式を獲得したからだ。
 実際、純粋美術と応用のそれの間は、特に京都や東京(旧江戸)界隈の商業芸術の中で越境される。こういった商圏は、取引自体を合理化する為に商業的形式を芸術にまで適用したがった。簡単にいえば、商人の都合で芸術の本来の形式を歪めた。例えば琳派(俵屋宗達、尾形光琳ら)や浮世絵(葛飾北斎、歌川広重ら)といった装飾工芸品的な制作物、現代でいう漫画、アニメ、ゲーム等のサブカルチャー類。これらはその目的が、商品である。ミュージアムショップにある諸々のグッズ、或いはディズニーやジブリのキャラクターがついたマグカップとかスプーン、ゴミ箱等の日用品。
 我々は純粋美術を求めて努力していたのであって、応用美術を求めていたのではない、という見方によってはスノッブ趣味にも見える態度は、アカデミズムの中で無自覚に強調されがちである。しかし問題はこの態度が古典主義とか紛い物の画壇政治的な闘争に濫用され易い事だ。
 所で自然の花は競争していないだろうか。美術は隣人との関係においてしか成立し得ない特殊な工芸であり、それどころか目的の制作行為である、という条件が我々の抜け出せない業であり、それを画業と云う。競争的に優位な花がその場を支配している光景は、流派あるいは派閥の論理でおきかえられる。成る程、こういった競争は醜く、ひどく現世利益を目当てにしており、究極のところ意味もない。美術史家にとって過去の傾向的展開をまとめやすくする、という間接的な効用を除いても、芸術家は純粋であればあるほど孤立する。そして孤立した個人の独創を認める為には、鑑賞者の側に批評の才能がなければならない。