2013年4月19日

ライブドア事件の哲学的教訓

堀江貴文氏は法律を知らなかったのだ。法律をしらなかったから、自社株の自社内での売買益が資本金に組み入れられるべきかには認識がなかった。さらにこのことは、専門的な法解釈の領域なので正否がはっきりしない。この曖昧な部分をみつけて、営利企業はいつでも検察という権力から懲罰され得る。というより、この事件は法の甚大さが結局民衆各々には完全な理解不能という情報の非対称性を援用した、隠された絶対政治の暴露だった。
 もう一つのポイントがある。それはカントの議論にかかわり、善意思と結果悪という概念だ。アダム・スミスは結果によって裁かれるという。しかしカントは善意思が最もよいものであるという。現代の裁判はこの2つの観点を重ね合わせて営まれている。裁判官・裁判員の個性にも関わるが、善意思というものを一切感知しない人にとってその人が善意で行ったことか悪意で行ったことかはどうでもよい。この人達は同情心がまったくない。対して、結果がどれほど悪くとも誰かに害をなす意思なしにたまたま起こってしまった事の場合は最大限罪を軽減したい、と思う人達がいる。この人達は同情心が最も高い。つまり裁判というものはこの性善的な人達と性悪的な人達の意見の抽出として営まれている。そして今回のライブドア事件では、性悪的な人達の意見ばかりが強調された。勿論その背後には、営利や年功序列の無視に対する集合意識からのルサンチマンがあった。
 これら法治制度に隠された絶対権力と、性悪的なルサンチマンという両方の鬩ぎ合いが大事として、ライブドア事件と堀江氏を取り囲んだ。事件が一段落して、堀江氏が仮釈放されてから思う事は、元々堀江氏の犯した失敗はこの絶対権力への認識のなさと、また性悪的ルサンチマンに対してのあまりに楽観的な態度の両面にあった。世知辛さへの認識とも言える。堀江氏は総合してこれを不条理と言い表していた。だが、元々哲学者が何とか立ち向かって戦っていたものは、この世間的な悪なのだった。法治的絶対権力も、性悪説も、ルサンチマンも、経済的には解消しようのない倫理上の悪である。そしてそれを批判或いは脱構築する事は、実は哲学的にしか不可能だ。