2013年4月19日

世界宗教原理主義の古典性

人類は理解によって確かに世界を変えたがった。人々が世界を理解したがるのは、それで少なくとも地上の構図、救われない生存競争から脱する道筋を探る為だった。
 人類は結局、人格主義の原理によって利他性の根源を追求した。仁義や慈悲、博愛は他者を助ける原型質を、理念として説明させた。家族愛、家庭団欒は最も素朴に男女間の有性生物的基礎を、原理的な利他性として同種の近親者へもってきた。この原型を拡張し、普遍的な利他性へ結ぼうとしたのがジーザス、ブッダ、マホメットという各世界宗教の始祖らだった。利他の原理は彼らの慈悲の度合いに比べ、時代を経る毎に縮小される事が多かったので、人々は彼らの名を聖人として記憶する事にしその原理と原典を維持した。
 あり得る程度の利他性は、名誉心という邪心邪宗の為に阻害される場面も増えた。功利思想や資本思想はこれを最も煽り、人々は放任主義者を最大の利己性の主張者と見なした。Mass mediaは有名人としてこれら利己性の持ち主をとりだした。だが利他性の基礎はやはり維持された。人々は孤立するか、社会化するかの帰路に立ったが、少なくとも集合してくらす選択肢を完全に棄却しなかったからだ。この時又彼らは嘗ての聖人を思い出すだろう。世界宗教原理主義自体、こうして人類の必然的社会化の結果として出てきた考えで、実際には人類の古典的な生活態度だ。