人類が善行でなしえるのは、言動や思考も当然その類型に入るが、ある守られた社会づくりだろう。この社会は共有規則を維持し、人類とみて類型にあう者を選別していく。全ての生物も、このよき世界に叶う限りに最大限淘汰される。
ある教養体系が自らの規律に科す事はまとめられた物分かりによるから、善意の程度はこの背景にされた様々な知識量にも依存する。
こういった過程は社会に非自然な行いを推奨させる筈で、道徳が反動物的であり、本能を抑える命令な場合が多いのはそれが社会の規則で自然のではないから。
この類型が時代に応えてかわる事例は、又彼らの背景とされる知識量に変化があった印だろう。
最善者の社会で要求される知識量は、当然そうでない自然状態より更に多いだろう。教育がどこまでこの増大に追随できるか不明だが、最低でも学習という行動が生得的な道徳性を補う主要な側面なのは明らかで、それは最善者にとってもやはり理性の補完を司る機能だろう。
同時代のある地域単位で道徳に偏差があるのは、仲間が共有している背景知識に大幅な差がある時真で、全くそれがなければ単に過去の選択された生得形質の向きによっている。
生得的なかしこさは知能の遺伝による。つまり、誘因とみた社会性はその規則自体の度合いの為に業を意図されている。こうして生まれが出現するのであり、習慣化に依拠している善意はいわば彼らの属した共同体の常識そのもの。この共有集団にとって、利己的な侵入者ははっきり質が悪いとみなされる。いいかえれば悪徳とは、その属した集団の相互に利他的な共有性を乱す情報源だから、文明が乃ちこの社会にとって第一の防波堤。
属した集団の質が文明度に差を設ける。こうして、人類はよりすぐれた集団に属したがっており、実際にそれができる時幸福を覚える。既に常識となった善意の中に同一の道徳性のもといる人は退屈で、それに及ばない人は反社会的な資質の乱雑さ故に不自由で被罰的だろう。自らがその集団の道徳より高い時は、誤解された中傷でなければ尊敬すべき孤独になるだろう。啓蒙家の役目は常に孤立した独善、結果は集団道徳への編入だろう。これらの集団性は単位として最小の時二人、最大の時全人類といえる。そして全ての人は彼らの属した集団に遠からず回収されており、この集団への貢献性に応じて行為している。
道徳がある共有集団の常識で、そういった仲間との共通した行動原則をやりとりしていく経過が哲学の担う仕事。この質は高い程よく、高い程属した集団の利他性から高い恩恵をうける。そしてそういった集団は、単に利己的な本能を多数の同一規則が共有できる群れに相互報酬として定義できるだけ賢明でもあり、単独では不可能な多くの営みから得をえる。