人類が考える事、理性を働かせて物事を理解し、或いは独自の自然ではない秩序を社会化した時から、原罪としてみなされる多くの自然状態への反感が生じたのだろう。現実に、人間の野蛮さと反する側面が余りに多い理性という能力は多くの場面で弱肉強食に対して敗北的な悲劇を示し易かった。これ故に人は野蛮さを再獲得し、他人に対して利己的に振舞う余地を特に「知性」と名づけて合理化したがってきた。これが自然学とよばれる系統の学識がもたらした利己性であり、多くの局面で理性そのものへ逆らう行動がその知恵者らへ散見される。
日常語でずるがしこい、狡猾、こすい、わるがしこい、さかしい、こざかしい、老獪、clever、witch、cunningなどの言葉でしめされる特徴は、この知性がつよく理性がよわい状態をさししめしている。この知性人は現実には反社会的ですらあるだろう。そして知性とは「人間的な自然」であり、本質から社会的ではない。文明の悪といわれるものはこの知性から生じている。
形而上学の必要性は知性のみの文明が実際には自然状態とかわらなくなる点にいたって人類におおきく自覚されるだろう。道徳という言葉の定義も、『韓愈』に弱肉強食的な自然状態と反する秩序とされたとおり、人類の多少より利他的な社会性にのみ求められる。そしてこの能力の方が元々の自然状態より特徴のある互恵的利他性にみちた協調や複雑な群れの相互扶助組織をつくりだしていくかぎり、後天的に獲得された知性よりも上位にある生得知能だ、と考える事ができる。
この点から社会Darwinismの合理化された秩序そのものが生得知能の高度化にとっては相反している、とわかる。なんらかのmoduleに還元されない社会での判断能力あるいは理解力、ものわかりとみた道徳のみが、遺伝された本来の一般知能によりちかい理性とみなされるだろう。
「学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし」『論語』為政。この罔さは利己性の過剰、殆うさは利他性の過剰を示していると捉えられる。中庸を君子と呼ぶ貴族的人柄の理想とみなした孔子にとってそれらはどちらかが過度ではいけなかったのだろう。