関西人は悪に従い、悪を貴び、悪に馴れ親しみ、悪業をたくましくしながら悪さを愛する。
単に道徳体系がことなるのではない。悪徳を好む、というはっきりしている性質をもつ。他の文化圏からも、悪徳を好んでとりこみ善意や善美と見做されるたちは排除したり、冤罪という最低の悪意を含めあらゆる犯罪行為でおとしめる。
この性質はかれらが移住した先でも発揮され、その子孫にも遺伝している様に見える。我々は、倭の天皇家と呼ばれる関西圏に数百年土着していた系譜がこの遺伝子に由来した悪徳を好む性癖を示すのを、おそらく以上の論拠からひきだすことができるだろう。先祖返りが起こる適所に置けば、倭の皇族の系統はやがてそこで中世にみられたのと同じ風の、凄まじい迄に性的規律が頽廃しきった社会、を作り出すだろう。
「もののあわれ」とよばれているのは、この悪徳の人物が悲劇的に滅亡するのをよし、と見なす観点の事だ。因果応報や自業自得をある超越した観点からながめて得られた知見ともいえる。何者か、上述の悪徳を担う人種の自滅劇場を展望する者はその総体に浄化を覚えたのだろう。
本居がその解釈学の典拠とした『源氏物語』は終始悪徳と悪業で占められている話であり、その中で皇族とよばれる倭の人種は自滅していく。この全ての因果関係の当然さを形容して、倭の首都で行われている悪徳を矯正せず、放置しておく方がその中での自然的な淘汰関係が機能するだろう、というのが本居の得た認識だったのだろう。
民族差別論としての倭と、中華民族との本性の違いという本居の論旨は、もしこの本居自身も倭へ集合化された業とみれば単に放置の程度にすぎない。いわば倭民族の悪徳や悪業は、本居も含めて自然淘汰一式として、その人種構成の中での因果応報を示すだろう。
悪い習慣を持つ他人へ忠告しない、注意や批判をしない、という風習はその社会集団の乱雑性をますだろうから、なぜ我々が冒頭にみた種類の悪質を好む関西人をほぼ法則的に数えきれないほど観察できるか、も説明がつく。もののあわれ論が浸透した関西圏では他人へ同情したり、その行為を諫める習慣が否定されてきたので、あまり乃至はまるでこの他者の為になされる善意というものが搾取を目的としてなされる最低限度の商行為を除けばみあたらないのだ。
これが下品な話題や行為を日々好みながら乱雑我雑に耽溺する関西人、そして性的頽廃に沈み込みつつそれを驕る或いは他者へ何の共感能力もない逆言で嘘をつく連中、系統とみればやはり人種というしかない情報列を我々が大量に観察できるかの理由である。