2012年2月20日

伯夷・叔斉とmodernism

我々が清貧なる理念へ抱くある懐かしい程の親近感には何かしら、深い人類学的理由がある筈だ。
 現実に、心理学がこの相反した人間性の現金さをどれ程暴き立ててみたところで、やはり我々に理想的に感じられるある清らかな質は清貧の上にしか花咲いたりしなかった。富んだ人達の内面の中で益々燃え滾るその清らかな気象への思慕と憧れ。彼らが持たざる者でありながら、ある精神的尊さを達しているという点だけでも、最大の報償に値するかの如くだ。

 我々は何もよのしくみをしらないだろう小さな子が、そのなけなしの小銭をうまれつき恵まれない人、避け得ない天災もしくは人災の被災者へ自発的に寄付している時にある言葉にしづらい感激を覚えるが、大変な富裕者が手の届かない額をふりまいたと分かっていても遣る方ない憤りもしくはそのいくらかの緩和に近い感情しか持たないのだ。「貧者の一灯」として広く認識されているこの平衡感覚には、人類が過去に辿ってきたなんらかの経験則が反映している筈。そして、一般に学問や芸術の世界が、経済と政治の社会に対して抗いながらも確保しようと勉めた場所こそこの、近代へ進歩しつつあった際に新興階級であった文化人が偶々担わされた、物質ならざる世界観へ向けた貴族風な気高さだった。ここには近代史という期間の中でもある特筆すべき勇猛なたちが隠されている。我々はそれをとりこぼしたりしない様に、十分調べた上で温めなおした方がよさそうだ。すべてを省みても、資本主義の勝手化な現実が真逆に進んでいるその際には。