2011年11月9日

近代科学の限界と哲学の復権

科学又は知識とは哲学の様式である。それらの信頼性の差は検証可能性の程によっているが、もし科学が特別な哲学だと思えばなぜそれだけが近代を特徴化してきたかも解ける。
 つまり、近代人の合理思想は道具的智恵のみを他からえり分けるのにかなり成功した。我々が工学へもってきた希望はこの対象学の外部化での恵みだった。仮に科学が信仰になったなら、我々は分析的思考しか持たなくなるだろうし、例外を許しえないだろう。社会に及んだ非理性的法制は過度の寛容に伴う単なる多様化を、一切の利害調整よりも有り難がるに違いない。こうしてみてくれば、宗教の奥にある非科学性や実証への否みは本質的かつ原理的なのがわかる。我々は信仰の為に科学を甘んじて捨ててきたし、それこそ理性的法制、つまり自然状態ではない社会構築への決定的方法だったのだ。徳政や道徳、倫理という言葉は人間が弱肉強食から遠い社会を理想像としてきた故に保護や進んで唱導されてきた。
 人間社会が自然の用語を使って他の動植物と違う高度に複雑な相利共生を試みてきた歴史は文明と名付けられた。そして文明化にのみ、人類が他の高等動物と異なって広域へ適応力を高めた理由があった。