2011年11月9日

捕鯨の善悪

捕鯨へのオーストラリアからの非難と各種の嫌がらせを含む日本打ち叩きは、ピーターシンガーなどの生物保護派の思想家が、彼らの観光資源としてのイルカとクジラを量的に飽和させつつ自分達より経済地位に祐徳な黄色人種系の島を攻撃する為の物慰みを半分含んでいる。

 仮に和歌山、静岡、山口等の鯨猟文化が彼らの主観から野蛮にみえたとしても、先住民族をみな殺しにした侵略犯罪の過去や、今なおオーストラリア大陸の政治的支配権だけの独占を理由に白人主義を標榜している流刑地の自己中心文化が煽る多様性への攻撃は、鯨漁の為に星中を航海してきたAnglo-Saxonの歴史を否定させる事もできない。それともオージーは、狭い国際社会の中で堂々とインディアンやアボリジニはイルカより知能が低かったし生態的地位が低かったとでもいうつもりだろうか。実際、少数民族の奇習にすぎないとしても湾追い込み型の鯨猟の技術が完全に途絶えきるのは、単に調査によって明らかな生態数に問題がない一海洋生物の過保護よりは地球上の文化的多元性にとって少しは価値が高そうにみえる。‘The Cove’はある偏見づけでこの風変わりな僻習を野蛮として定義しようとした様だが、現実にはカンガルー殺しの生肉ぐらい蛮族人種は多くの公平な存在にとって永遠にあしき攻撃的利己主義者らへの諧謔の的でしかないのだろう。

 私は行政が法的に許可する必要もないが、かといって一切の干渉も無用な、西日本によくみられる近海漁業の一種として将来の資源渇枯への準備としてみても「人類の遺伝的利益」とは無関係なそれらの鯨猟は、単に放任されるべきだとおもう。民主政下での公論が地域ごとにかなり異なる結論を導く事は、ある国連内での常識水準を満たす限り、自体が人類の文化並びに社会的多様性に寄与する。国際非難を既成事実化しようとした過激派オーストラリア人は、鯨漁業者としてよくしられたイギリス本国人を心から侮辱している。
 もし必要がなく、動物愛護の面から愛玩されている割合のかなりの高さからいって、なおかつ資源的利益がないならば新しく鯨猟を行わなくてよいと私も思う。だが、既存の鯨漁業者ら一切を世界から撃滅しようとするオーストラリア人達は、己どもが愛すべきカンガルー達を大量虐殺ばかりか日々スーパーでその可哀相な血肉を大量にがつがつ喰らう蛮人集団なことを隠しきれない限り、おそらく地球のどこかでその領海のうちにあって独自の判断から鯨類を捕獲したり何らかの利用をしている人物とその自由権をほかならぬ暴力によって干渉できる道理はない。それは人権侵害という国際法廷で処されるべき大犯罪である。
 もし何事かができるとすれば、慈悲という伝統的宗教心からのいけとしいきる物一切への残虐な取り扱いの軽減化への説得にすぎないだろう。そしてそれ自体は、最も先に生物愛護論を唱えた仏教徒にとって日々行われている戒めであって、オーストラリアの知恵者などに口をだされずとも殆どの日本人は理解がある。狩猟を辞めさせる事はその無害な競技への昇華よりもたやすいが、実際に過去起こったことは開放された場での進化に任せる中でのみそれらの文化的洗練が育まれえたという歴史であった。