2011年11月7日

出版界の終り

商業出版界の俗物加減は殆ど伝説的な迄に落ちぶれつづけている。
 商業出版そのものに関心ないある少年へ恐怖し、ネットの匿名性を濫用して苛め抜くのが、その商業出版の中枢で人気取りに才を費やし続けた一人の虚栄に驕れる関西人小説家の姿だった。

 私の目の前では数かぞえきれない俗物達の当選していく商業出版の賞が費やされていった。少なくとも、私はかつて日本というもの、そして東京という首都に希望を持っていたものだ。そこへは、数は少なかろうと確かに高級な文化らしきものへ関心のある人達が紛れていた。しかし、私が携わった成長の経過で発見したのは、そういう人物の丸きり居なさだった。東京にも日本にも、これは確かなことだが、高級な人間は消えてしまっていた。団塊の世代と呼ばれている層には甚だしい俗悪さしかなかった。それはまた歴史が証明する事だろう。

 私は浅田彰という名前の者にも失望した。この人物の態度がただの目くらましに終始していることは、彼が村上隆を評価しているので誰もに理解できるだろう。実際、村上隆本人がkitschの戯画化を好んで行なってきたのは資本主義とnationalityへの皮肉以外に見て取り様のない後近代性でしかなく、我々はそれを冷笑する為に彼が道化を演じるのを眺めさせられた、としか時代状況へも形容法はない。なぜなら、この団塊世代らの低俗さは彼ら自身が自覚なしに続けてきた悪風と喜劇の延長なのだ。なぜ俗物根性と犯罪の美化という倒錯しか書き付けることをしてこなかった賤しい悪徳小説屋が首都の知事職に何期も就き続けたかを説明できる者にとっては。

 商業出版界の品性下劣な馴れ合いには吐き気がする。奴らの最悪さは退廃の底で互いを引きずりおろし続ける地獄模様だけを証明している。無論、之は全く特殊な意見ではない。まっとうに団塊の世代を見た若年の代弁なのだろう。
 猥褻をこえて淫蕩ものしか書けぬ三流以下の「芥川賞作家」とやら。こいつらには天罰が下るといい。世間を欺き、自然主義以来の退行に耽溺し、無宗教の狂乱を愛し、死ぬほど愚劣、その侮蔑すべき人格の低劣さに伴った厚化粧の過剰学歴やら肩書きやらで何の事情も知らされていない一般社会を貶め続け、毒物流布で世界を裏切る犯罪者達。銭儲けの戦後作家とやらにはすぐ絶滅した方がいい全ての事情が揃いきっていて笑える程だ。脳の退化しきった老害曰く、文芸は頽廃を窮める為らしい。無知の底がしれない、19世紀のフランスより遅れている東京の文芸誌社会。

 吐き気のする薄汚い西日本の倭人ども、菊池寛による数々の頽廃出版系の創始とは後が無い。芥川の自殺以来この日本では一人も読むべき作家が出た記録はない。江戸時代より酷い六流と無恥無能の集まり。そしてそれらの無判定能力の蛆虫どもがよってたかって子供を悪習へ巻き込んでいく。おちぶれた商業日本には絶滅を、こう思わずにはおけない。事実、自分の努力でさえ文明というものの高貴なる契機へ多くのhintを与えてくれるのを祈る碑文でしかないだろう。