2011年11月4日

一般教養哲学

哲学ということばは、我々の混乱と無謀時代の代名詞として一つの滑稽論にまでなっている。語りえないことへは沈黙しなければならない、このせりふ程現代のおかしみをといた文句はない、といえる。語りえないことが語られねばならない理屈などないし、語りえないことは形而上学一切の比喩でもない。科学信仰の告白は、命名権の先取りで優越感に浸りたい利己主義者の皮肉でなければ、道具崇拝としての自然への偶像化だ。単に、沈黙とは言葉による形容と例えの限度である。
 私は重要な友人の感覚論を聴いた。彼のいうところでは感覚は言葉に先立つ。語り尽くせぬ情趣は言葉以前に命の中で経験されている。
 この理性至上主義への高らかな反抗は、しかし、もし理性が言葉によって経験を抽象化し、より可逆な知覚へ近づけえる頭脳の所在だった時、言葉という人間独自の記号と共同化を前提的に否定させるものだろう。
 私は理性の力、つまり言葉の限界が、一切の感覚機能も十分に抽出できるのを期待しているし、実際に歴史の中で少しよりそれは成功してきたらしい。俳句や短歌の中にいかに多くの感覚語や自然現象のしるしが含まれ、その表現可能性は幅広く、人々の観察を飽きさせないか。更にそれらは益々ちからをましている。
 哲学とよばれてきた論理の空回りは、もし言葉遊びだとしてもそこで語り得る範囲のみによって共同体の規律や共有体験を交遊できるので、単純なゲームとして見ても決して最悪の類に属してはいない。論理の空回りは空命題をしばしつくりだす。この命題は答えがない。実証的質問以外には唯一解や漸近解すらみいだしがたい。かくして語りえること、その限界は命題の正誤の答えにかかわらず常に広がりをもちたがる。仮に錯誤や間違いを及ぼす大きな原因がこの空命題をたてるあまり顕著ではない習癖、によるとしても本質とみた論理作用の補集合体の深さは、最も危険な工学の悪用による自滅を、絶えざる疑いの差し挟み、方法的懐疑によって避ける効用がある。もしそちらこそが欠けた時、すべて科学内部の論理はそれを別の目当てへ用いえなくなり、道具に使われる精神が誕生する。人工知能と人間に才の違いがないとすれば、それは哲学の深さに何の差もない時である。
 この為に、形而上学は全ての学資にある名目を与えること、いいかえれば学問の目的を定める対自然学集合をつくりあげられる唯一の知識であり、その体系的学習とやら乃ち哲学史も理論の及ぶ限り可能である。感覚機能への分析や詳しさも、少なくとも言葉並びに記号で象徴化し得る限りこの体系的認識を補完する。とある哲学が高い完成度を持ち、かなりの世代にわたって批判的に修正しえない程強力であった過去はあまり多くなかった。これらの聖人哲学者らはその数奇な知能の高さの為に古代から現代に至る人格的修養の模範とされてきた。世界宗教の創始者らが最高の哲学をもっていたのは決して偶然ではない。彼らの智恵を頼りに、我々は自ら達の社会秩序を立ててきた。
 限りなく細分化されていく科学の諸学野へあるまとまった目的論をつくりあげえるのはただ全ての学資の中でひとり、哲学だけである。この実証知から見做せば言葉や記号による認識群の織り成すあやと誤謬に満ちた体系は、少なくとも全知識の外部系としての論理を維持するが為だけにでも、人類の尊厳を機械とロボットによる精神への抑圧から守る多大な貢献を成し遂げている。哲学不用論はみな非人間的社会構成と、世界に於ける人間阻害に終わるだろう。芸術とよばれている最大限の感覚的娯楽へすら、諸々の文化史間の比較から優れた趣味論をつくりだせるのはただ哲学の深さによっている。実用主義にとって趣味主義は決定打となる批判だろう。そこでは高貴にして気高い伝統ある人間性の勝者と、機械へ堕した取るに足らぬ道具的存在だけが見分けられるが、もし社会という我々の仲間の延長が全て幸福の為に大きな条件となるに就いては、文明が道具主義の中に挟まれた惨めな歯車としての労働者と被雇用者、使用される者達をいかに抑圧してきたにせよ、哲学によって救済されるべきただしい趣味の理解とその為におこなわれている数かぞえきれない幅広い文化群の比較検討による一般教養が最も我々の尊い共同性に格式をつける原動力となる。