日本の産業構造がおかれた特別な事情は、その政府の大きさ並びに国民の集団主義性向のため所得格差是正への強い世論が働くところにありそう。農業政策という舵とりは、この点で最も難しい手くだになる。
すくなくとも食料自給率への考察が十分進んだ先進国にあって、それらの業態が効率化や風情的な価値によって単に資本主義のなかの目先の群衆需要のみによる位置づけとは多少あれずれた、文化的又は伝統的な価値ある保護されるべき国益とかんがえられる点は似通っている。そして日本でも同様だから、ますます不利なままにしておかれそうになる農業の体制をできるかぎり公益の問いとして大規模に改良するのが専ら、いまそこで必要な産業改善策といえる。
家内制のままにしておかれた農作物が買い叩かれる、という日本国民の全般にもっている強く商業好きな明治来の思潮からいえば、GHQのおこなった大規模な干渉にかかわらず、効率の高い農業運営こそ第一の課題になるだろう。そしてこの点では三ちゃん化といわれる担い手の人員不足は、かえって資本にはかならずしも恵まれていない地方の田園でのみ再び望み得る牧歌的生活のための多くの好条件を提供しているとみなすこともできる。
地方自治体独自の衰退または人口減少への対策はさておき、すでに大規模かつ資本家によって寡占されて大幅に安価な米豪などの食糧品か原材料と、まったく関税や税的調整なしに(TPPをその一つの名目とする)完全放任貿易を行うとすると、ほぼ確定的に必ず大規模な所得格差、さらには地域間格差が国内でひろがり、人数からいう農業者らは社会構図のなかで今までの厳しい運営事情に加えてさらにきわめて不利な立場へ追い込まれる可能性が高い。そしてそれ自体は、もしまったく農耕への適応を省みないままならなおさら日本の国民性全般へある軽率さ、余裕のない心情、齷齪した排他的商業民族にありがちな一定の悪びれた性質をうえつけなおし、広域に伝播してしまうはずだ。結果として、多くの日本人は国連組織のなかにあってさえ性格の同等さのため世界中で文度からくるたちのよくない問題を起こしている特定の商業的中国人(または質のわるい華僑)の一部とみなされる経験を多くするか、ずる賢い彼らからの勢力上の懐柔と同化にあうかもしれない。
この道とは逆に、国号を制定した当初の操を貫き、農業を自律した国家の為に不可欠な自製資料とみなしそのために積極的な地方や田園の衰微への対策をとっていくかぎり、たえ難いほどの所得格差からくる社会性の荒廃やあるゆとりのない心理からくる狂信的集団ならびに長期失業の蔓延からの犯罪率の上昇など、これまでにもましてありそうな貿易都市化の暗面は甘んじて避けられ得るだろう。
それらの社会的損得をある中長期的視野でみかえしてみれば、現在の日本が置かれた、また明治政府の猪突猛進的な短い期間の損得とはなはだ無計画な将来性に基づいた方針のせいで強制的に起きていった侵略戦争の過去よりきた一段劣る国連での地位や、それを一つの原因とした外交上のいくらか心もとない既存の事情から導いてさえ、食料源をあり得る最悪の事態に際しても最も有徳な道具とかんがえるかぎり、我々が農業の再生を最優先の命題としても決して誰も損失を得ることはないだろう。
これにともなって国土に想定される荒廃を憂うものは、日本が世界に名だたる自律した判断のできる正義感と志の高い平和愛好国家であると知らしめるためにもまず、大規模な省庁の再編をおこなうといい。農林水産省を財務省の意思決定部と深く関連づけ、環境省、国土交通省の林野庁ほか国土地理の管理についての部局、並びに観光のための多くの部局をふくんで経済産業省のなかに編入すべきだ。なぜならこれらの各部はすでにばらばらではなく、国家のなかでほぼおなじ仕事をになっているのだから。それらの二重業態は税金の不足を及ぼす費用高な摩擦であるばかりか、おそらく想像される限り怠惰で堕落しきった人々、しかも元々はきわめて模範にたるほど優秀であった選良を国民の供託による税収でなぜか制度的に養ってしまうという、大きな政府の中にはびこった中華官僚的不条理と腐敗の温床ですらありえているのが現状だ。
現在のイギリスでは旧来のministry(省)からdepartment(部)へと名前をかえて省庁再編による組織の合理化がはかられその大部分は成功裡のうちに終ってきたが、日本についてもそれらの実例から良い点だけをぬきだしたかたちで「農業政策の合理化」という課題を途上国群への先覚者たる導きをひらく喫緊の課題とみなし、省庁の部局統合という観点から一気に進めるべきなのだ。そしてこの観点を国民にとって将来の命綱をつなぐものとして(それから公害に際し傷ついた国民及び人災の被災者らの公平なまなこからみた、安全対策の不備で罪を犯した側への賠償心をも十分に満足させるものとして)多くの民衆が自覚する限りで最優先の仕事の順位に据えてのち、TPPへの指導的参加も問題のない仕業となるだろう。
なお、省庁の再編について、その名称の変更へは多大な費用がかかる懸念があるので、部局の統合やつかわれていない部局の廃止とあたらしく必要のでてきた部局の新生に際してかかる費用よりもそれらが低いばあいに訳あるといえる。すなわち
名称変更の費用>合理化による節約分 → 既存の名称を再利用
名称変更の費用<合理化による節約分 → 新規の名称を採用
両者がひとしいときは部分的に名称変更にとどめるのが訳ある。かつ、既存の名称を再利用するには、たとえば総務省の上へ、あらたに多重に統合された名称としての「部」、つまり内閣官房総務部の一編成局として省という既存名を用いる工夫などがかんがえられる。この工夫の仕方は、たとえば最も力を要する衰退しがちな地方行政を統括する、選り抜きした超省派のRural departmentあるいは田園部を設け、その直近に以前の機能を分散してもっていた省庁や局を指揮系統について配する等。