2011年10月18日

哲学の結果性

実証的知識を積み重ねる事にしか哲学的確信を仮設する有効な手だてはない。
 孔子の「学ぶに如かず」、はこの形而上学の根っからの仮の宿りさを各時代水準の知識人へまかせる故に善意を思う悟りだったはず。
 カント的定義での実践理性といったものは、より現実に即せば機転でしかないだろう。この質は教養度としての哲学からきた判断力か理解による。本の虫という揶揄語では機転のなさの原因が知識の有無かまで言及されていない。つまり、この語は知識量の少ない者が多すぎる者を誤解したと考えられる。同様の諺に馬鹿は高い所へ登りたがる、がある。これらの揶揄語とはあらわれた時代と風俗背景を含む誹謗の意図を裏読みしない限り、歪められた事実への解釈が、社会習性としての確証偏見から同語族へ伝播してしまう傾向をもつ。
 理性と知性に大きな違いはない。それらは総体としての判断と、個別のそれとへ少し工夫された言い方でしかなく、場合によっては感情とか感性といういいかたで示されたがっている特定の表示や内面も同じ。
 純粋理性と実践理性、判断力というカント語の上には言葉遊びか、言葉の定義、言葉遣いでの遠回りがある。真善美は同じ能力の側面でしかない、とはより緻密にいえば才の差、違いでしかない。自然が能え励ました才には多様さがあるが、そのどれもやはり。ギリシア語でareteといわれる能や徳と訳されることが多いもの、はもともとこの才の有無への日常語だったか。
 より少ない知識人の哲学は、小さな侭だろう。そしてかれらの芸術も、同時代水準から偉大になりがたい。すべてのhomo sapienceは徐々に才の拡大へ向け世代ごと歩んでいる。こうして、天才とよばれてきた個性は抜群さの名辞で、かれらの程度も集団とその歴史による。無知の知は、無知に無自覚な集団にあっての最善の方法論だったとしてもその程が偏差値化されたり、日々試され使われえる文明下では常識や各人格の否応ない前提でしかなくなる。これはまた善意志が厳密には後知恵でしかありえない、と恐ろしい人間界の真相を穿っている。だからすべて、人間には善悪と見立てられえるあらゆる表象が混在しており、善人も悪人もなく彼らには才の格差だけがいつも浮動している。これは裁判が集団利益の産物でしかない、としらせる点で強い利他主義者にとって危機迫る認識でもあるが少なくとも、弁護や裁判官試験とその職務の為の才の有無は決して否定しないだろう。