私は関西圏からきた者と話すと、長い淘汰の歴史によって、きわめてことなる人種を眼のあたりにする。彼らの一員が言う。命が惜しい、俺は臆病だ、欲望を追求したい、と。しかし、私は、或いは我々は当然ながらこのせりふを軽侮と共にしかとれない。それだけの事なら丸で動物だから。
商圏の中にはこの類の町人気質が蔓延しつつ生き残り易い土壌がある。京阪神の過密人口と異様なる商売勘定の拙速をみよ。そこで生き残るのも、又商売気質をより永らく占め、富の搾取によって他者を欺き心底嘲笑うのを特徴とした人々である。
島のことなる県などは多少あれ別だが、同じ本州の中で、或いは少し離れた四国でも場にこの種の商業気質がごく強い。彼らは命乞いや卑劣を恥じない。貧民やもたざる者を憐れまない。けちであり将来にわたる予想を軽視する。道徳をきらい世界は弱肉強食であると考え、場合によって獣類に戾る。公権力を濫用し遊堕に耽るが反省の色がない。恐怖政治を信奉し他者を欺き勝ち誇る。他者を平気で貶め自分ひとりだけ女々しく生き残りたがる。彼らがどう思うか分からないが、私の眼には卑小なる社会。山口県は萩藩をもち、明治簒奪の主な構成員をうみだし、また毛利の時代からこの種の関西風へよりつよく親しんでいるので同様なのだろう。
天皇家も公家の親玉であって、凡そ心象は同様。彼らは他者を関西人の如くみているのだろう。東京都にも家なしがいる。私は彼らをはじめて見たとき何事か理解できなかったが、関西人の態度をみて漸く朧げながら想像できた。関西人は同じ人間を見下して漸く、自らがかりそめの安定を得る。特に京阪神と呼ばれる中枢地域では。だから、彼らは常に自らより何等かの点で優れる他者をおとしめているらしい。家なしの中には、軽度の知的差し障りだけでなく、心身がはじめから他の者ほど活発でない疲れ易い者がいるだろう。彼らの能力の一部分は特定の社会条件では、つまり商業活動での搾取が福祉より優先される場では機能しなくなり浮浪の身とならざるをえない。
私は石原慎太郎という都知事をしている者をみたとき、異質さを強く感じた。彼は目立ちたがりで他者を無闇に追い落としたり悪徳を誇示するのを日常とし自慢としていた。慈悲は殆どみられず、下賎な小説で権勢支配を驕り、悪邪をまきちらしつつ得意がっていた。他者を尊ぶより自らの優秀さを信じ込んでおり、呆れた下種な事をしつつ同類の前で金の浪費や、福祉のきりすてをしていた。彼の如き人物が知事職に就けるのは東京都という巨大な人口の吹き溜まりが、京阪神と同じく商業地として固定化していっている事を示し合わす筈。その人物は、関西圏の悪徳を引くのを以てやはり有徳ではないのである。
遠い将来をみこした時、彼ら強い商業気質の中で淘汰された者はやはり品性下劣な侭だろう。取引差額へ集中し、他者をごまかすのを愛した人種はついぞ独創さをもたず、利他心を覚えもしないだろう。その人種は災厄に際して最も惨めだろうし、常々蔑まれてくらしているだろう。京阪神、東京都という大商業地から道化や娼婦の出現率が高いのは決して偶然ではないだろう。
私は文明化が、九州の片田舎の中津藩士だった福沢による欧米訪問で、その物質の豊かさとしてかたよって初めに捉えられ、おもに商業化として進められたのを残念に思う。もし上士だけが訪欧していたなら高貴を魂にみいだす彼らの為に逆の結果がもちいられた可能性が高い。薩長土肥の外様藩士も幕政を覆すのを様々な外来物のもちこみで正当化したがったが、末路をみれば、あまり立派な業ではなかったらしい。彼らは出自の貧しさのあまり富裕に憧れ、一気に社会を変えて自らこそ金持ちになれる材料をありとあらゆる欧米の産物に求めていった。私がみた京阪神じみてきた東京都とその下賎な心象の都知事とは、おそらくこの拭い去りえぬ結末だったのではないか。
東京都という土地の莫大な人工化は凄まじい。地球にそれと似た地域がないというのも理解できる。あれらの地平線まで埋め尽くすほぼ石造りの箱の群れは、そのどれらにも人が必ず住まっているという点でも異様な想像力を必要とする巨大な謎と神秘である。もし、それらの中にいる東京人が殆ど同じかかなり似た脳しかもっていないとしてさえ、無限に続くのにひとしい人工の街の細部にわたる微妙な違いや場所の名の変化、一つとして全く同じ光景のない社会の動き、彼らの休みなく動き続ける生態とわからないなんらかの目当て、次々つくられていく建物の面白さ、こういった物質へ執着する人知の限りを尽くした適所は、意図に関わらず明治以来江戸を改造して使っていった人々の考えと工夫によっている。なるほどそこに抜群の魂のよさは、勿論亜細亜の吐き溜めの様な京阪神に比べれば優にまさるにせよ、あまりみつからないのかもしれない。単に確率による以上に、自然の原型をここまで失った人工の森は我々の心を慰める四季や動植物との調和もまこと得難い。
こうして、福沢ら南西系の日本人が大量に流入し野望をうえつけた東京都という適所は、人工の亜熱帯をつくりあげるのに計らずも成功した。そこで暮らしやすいのも、本来の温帯へ適応した者よりは亜熱帯の気質をもつ早熟か命知らずの、不衛生さを物ともしない類の姿と種だったらしい。私は東京都が、なるほど京阪神よりはずっとましだがなお極めて不潔なのをみる。空気は澱んで川へは入るのもためらわれる。人心は倦み自暴自棄な多くの遊堕なる稼業がある。新撰組と赤報隊の、尊王と殉死者の史跡を眺めてさえ東京都ですぎていった時代の面影は南西倭人が必ずしも優れた将来像ある人達ではなく、束の間この世へ浮き沈むのに最も快さを覚える商業気質であったのを残念に思う。他の姿の東京なら、どれだけよかったか。
これらの考察から私が人類の未来へのこしたい言伝ては、侵略者に善意なし、みやこの果報は寝て待てということわりだ。侵略者のつくりあげた如何なる京都もはかなく亡びるだろう。その不正な意図は安住しえない場所で育った特定の搾取気質、乃ち商業気質からきた暴威だから。逆に、安住者の自ずと多い都市のみ人類の中の優秀性をはぐくむ母体となり栄光を勝ち取るだろう。防衛者の強さは、事実上この都市のもつ潜在力によっており、侵略へ転ぶのは常に村のつまはじき者だから亜種としてそれを退けつづけえる者こそ最も高貴なのが誤りない。こうして徳の最高峰こそ、常に最高のみやこの指標であり続けるのであって、偽りの商業度は単に人口の多さにしか評価されえないのである。