2011年5月27日

業の巾

道徳的淘汰とみた社会とぎは、より劣位に置かれるか制裁をうける品種をその時代やうから水準でたえず造りあげる。
 私の経験でいっても、卑劣や卑怯という不正を何の錯誤ともかまけない品種はより不道徳に馴染んでおり、その生態は醜く将来性をもたなかった。それらの不徳は劣化した知能に由来していて、不正はその侭彼らに悪疫をもちいていた。しばし遅れてやってくる制裁がある。この時うからはより大きな罰を被るのが普き。というのも、道徳の遅れは悪業の蓄え、乃ち生態の奇形だから。善については逆の意味で英明壮健へ正の相関を示す。説法の一般はかくして族が担った会話の程で、彼らがもつ落ち度や特徴とした能力への強調を司る。教えが興るのはその能力への向きの不足によるのだ。
 之らの理念は「積善には余慶あり、積悪には余殃あり」、この因果応報の蓄えを示唆する多くの文化圏にある諺で一般づけられている。凡そ報徳観念が世代間に及ぶと、輪廻に於ける前世と来世の区別が発生する。しかし、この空想小説化はいわば教化の具であったから、本来の意義に於いては血統への注意書きこそ無限遠に及ぶ報徳のことわりなのである。