2011年4月5日

行政と天意

自然災害が倫理への直接の言い分をもつ事は少ない。倫理は社会規則なので、人々の道徳観からでてくる。もし自然の恵みや災いを何らかの神意の顕れとみなそうとしても、そこには現象や何らかの出来事しかない。よのありさまは「神から離れて」ある。いかなる事象も物理反応でしかなく、もし何らかの人の倫にかかわる考えをふくむならそれは人のことばに於ける解釈の域なのだから。
 神は自然現象の上にある。天という概念は、これを超自然な意志とつらねるかたちで流布された一種の擬似神話。天は字義に忠実や単純にのっとれば単にあたまのうえの世界のこと或いは頭上であり、なんらかの倫理意図ではない。もし旧中華帝国が天を拡大解釈させ超自然意図の総合名義としたなら、それはやはり解釈学の一種であり、客観できる事実とはことなる文化偏見でしかない。自然現象そのものが途中改変されがたい自律した系だという現代物理学の捉え方は、少なくとも神意の偽証や詐称、つまり主観学ないつわりからのうそをのっけからはねのける。市場遊びの胴元な行政長ごときが、全宇宙を計画と創造したと定義される神のみになせる、いかなるおこないを摸してもいけない。
 かれらは市場をまとめることしかできず、しかも外政干渉は法的根拠があいてと共有されていないかぎり、根本的に悪徳である。ほかの私有地群への侵略行為で、公的批判や公共福祉への気づかせを一般意図や実践していないかぎりの言論や媒体戦略による脅しや誹謗中傷も少なからずこれに入りえなくはないので。公益に類しない非難はつねに謗りである。
 行政人とはこの世界をはじめからつくりあげることもできなければ全宇宙にひろがる自然現象の総合建築家なのでもない。かれらは自らの治める市場を、法にもとづいてまとめあげる役割しか担うことができない。いかなる神話や信教と宗教のおしえともこの国家市場は頑なに切り離されるを得る。