2011年4月25日

理念界の役割

言葉はそのものが現象でもあるが、多くの対象語ではたとえ や鏡でしかない。プラトンのイデア説からいわれる芸術のたとえさは全ての言葉へもあたる。だから非対象語か理念語でしかイデア論はありえず、もし対象語か現象語へ限っていえばエイドス論域に留まるたとえの連なりしか示せない。こうしてみれば、科学とよばれる物質をおもとした数理や法則分析の体系は、その中で言葉の作用を対象への言い及びでしか使えない。理念語のみでの思索は程でしか示されないが、なお理念語のみによる推論の体系は残る。
 沈黙律、ウィトゲンシュタインによる非実証論への禁忌主義はもし理念語の推論にみれば誤りでしかないだろう。道徳とか法律とよばれる一帯の世界、批評や構想による文明への注釈、これらも又沈黙律によれば過ちでしかなくなる。実証則をもたない世界は社交規則を不合理や不条理の前に置き、一つの独自な地獄を造る。かくみた時、政治社会というこれら道徳強制の機関は過ちのつみさかねでできている。実際これは戦慄を覚える認識であり結論だろう。そして哲学という文脈体系にとってプラトン以来の価値観は、言い訳がましい虚偽のつみかさねを無数に構成して何とか学問じたてに、自らの立場の正当化や無理強いな擁護してきた一連のおかしな行いだった。いかなる宗教もはじめは持続した哲学か智恵の伝播だったろう。特定の教祖はつねにこの理念語を抜群の強度で駆使した地帯最大の知恵者だったろう。もし以上の推察が正しければ、哲学界か道徳社会はいつも特殊演繹的で、自体の風変わりな世界規則を維持していく。一方でこのおかしみを緩和したり離脱するのに実証できる技術からの普遍帰納的な世界がある。
 これらの両者は社交界が普遍規則からの隔たりを望むほど強く違和する。政治界がいつも全体ではない共同体を目的としているのを認める必要がある。世界市民主義者とはいえ、もし権力の座に就けば即日そのおもいのままへの誘惑から免れず卑しい独裁主義へ陥る。権力が理想を腐らせる程は政治界の広さへ比例する。又普遍規則を望まない誘因は常に彼らの特殊化の為に特定の仲間での内輪理説としての道徳を要求する。道徳は空虚で、空中にある。道徳は虚ろで中身はなく、常に誤っている。もしこの命題が真なら、とはいえ論証界の命題としては永遠に不確定だが、古今東西の全道徳律やら徳目は信じるに足らない嘘である。慈愛も慈悲も忠義や趣味さえ中身はなく、単にそれをつくりだした人が共同体へ与えようとした嘘からなる思い込みか偏見、つまり主観学の一。どんな宗教も哲学や道徳、倫理も中身はない。それらは嘘であり、思い込んだ人々の内輪話でしかない。最も普遍規則でみなせば言葉の鏡は彼らの実証知識としての対象語をねりあわせた勘違いの産物でしかないだろう。

 処で、これらの特殊な共同体は、別の効用をもつ。これらの特殊さは常に全体化や総合化をさけようとするし、実際に思い込みからきた違和感の為に少なからず社交界で離反しあう。こうして特殊な共同体の群は、部分や部派をつくる。これらの民族差は思い込みの違いの為に、乃ち主観学のかたより故に必ずことなった進路をとらざるをえない。生き残る民族が伝えた勘違いの体系は、偶然や文化的浮動を併せてもおそらくより理念語の積み重ねを遠く迄続けられたのだろう。なぜならこの道徳か みちのり は実証知の上に築かれた一つ以上の主観学間でのおかしさの共有だから。そしてより長い推論の中に含まれた理想は、より短く取るに足らない結論よりも選ばれ残される機会の多い誤りがある確率は高い。冗長度はそれらの自己目的さに於いても「理念語の鏡」の為に自らの規則を延長させ易い。この鏡はいわゆる観想による識者の幸福、つまり理解の喜びしか映さないが、この世で知能ある生物が映す中では最もはっきりした理想を示す。理想は人々へ共同体の延長への期待感や希望を与える。それは理念語が及べる映しこみが社会の未来をのべる限りで確かに。