2011年2月11日

検証啓発論

実証科学の精確さは、数値への検証とか特定概念の定義に返るが、決して絶対的とはいいきれないだろう。それらの知識による自然界の把げは、ある知覚基盤の属した場による繰り返しに耐える検証の程。故に実証科学が完き真理を得るのは、比べてしかできない。
 潮流がえがあった時 多くの実証科学主義の者は同じ轍に嵌まった誤り易さに陥るだろう。ある潮流からくる偏見はそれらの勘違いや不確かさを信奉させつくが、「知識への確信も信仰の姿である」或いは単に「科学教信者か」という命題の前ではこれらの既存の精確さへの離反は、より判りのよい立場也と疑えない。科となった潮流ほど、既存の法則信念を固める傾向がある。特に、数学化が進んだ分野、つまり基礎的な分野ほど勘違いは固まり易いらしい。多くの人が証明の導出を省いていく前ではそれらの数理の中に誤りが入り込んでいても、彼らが錯誤を直すより自らの伝統的法則知によりかかり暗箱の検証を怠る危うさがある。
 之らを反省してみれば、暗記による学習はみな科学や単に知ることの本質とは違和する手順であると分かる。科学的とよばれるそれらの営みは、論証過程の十分な理解やくりかえしの検証を通した実験的確認の価値より、遥かに劣る。事実多くの電脳メモリは憶えておくという能力をたやすく代替可。
 したがって、人々が暗記による学習を続ける社会の場では能率や精確な行いへの指針を、検証かしらあかし又は単に「確かめによる学習」のそれに比べて失いがちだろう。実証科学上のいかなる潮流も、かれらが検証を通したくりかえしに耐える確信を作り上げる働きをしか語りえず、又そう語りうる域へしか精しさをみせない。