もし科学が外部化できれば、人類のある末裔へこの詳しさ計画から数かぎりない数理知識を略無限大にとりだす日がくる筈。その時詳しさを習性とした団りの主な役割は、知の管理と剪定に已なる筈。かく想定すれば、仮説推論の上でだが、主観にとって望ましい事象を後付けで合理化する論証の理性というけたたましい風習であり営みは、単なる暇人の高貴な娯楽をこえ使用の方法論、乃ち趣味を今より高度に考察する体系さをえる。功利説や使用者説、之らの訳語でutilitarianismが理想主義の最も実践的な側面と称されてきたのは、実は趣味の定式づけを斯くの知性外部さに限ってみつけようとした努めによる。この知を使う立場の考え、は知識を狂信させ一切の信教や古きよき道徳律を無碍にさせる邪宗でもなければ、起業家の心理要諦でも、どころかベンサムや福沢風な政治の骨と直結させた支配実践論でもない。それらは功利説の利用であり、趣味主義の本懐では決してない、それというのも人はいかなる誤用もなし兼ねないから。
そしてなぜこの誤用が起こるかとえば、実に情報伝達の摩耗、乃ち誤解の総量に基づく。差延ある文面はその解釈主体に多くの取り分があるが、冗長度に即した一貫さへまつわる同心円的敷衍しか元々どの理解の定量さも量りえないといえ、故本質な趣味の云奥は一種の場所力学としての範囲効果をもつが、遠い伝達誤差にあたっては殆ど効力をなくし、逆に勘違いされ易くさえある。乃ち理性本来の意味はこの種の趣味の考えにあり、それは群れの統率と指導力としての慧眼と明察とから自ずと今日へ導かれた単なる知性外部の習性だが、社会内で許されう感情への統制の程、及び知の使用論や法や構想についてさえこの意味の多重さを即座に見透かす複合された認識のさがが優れ方の核心。