2011年1月10日

信と計画理性

人が技を使えば必ずその用法な趣味へ思い至る他ない。技は使い方で害にも薬にもなりえ、科学研究機の如く自動化された計算装置がどれ程甚だしく展開しても使うかぎりそうなる。
 機械に使われる程度を問う時、実はその裏で彼らの計画をうみだした理性の趣味度を問うている。文明の工業は多少とも機械な計画からの逆使用をも含んでしまうが、彼らが使い返せる程度の高い理性の持ち主ならば、機械からの淘汰圧をさほど気にしなくていい。機械人類やその中間体は天然な計画の純粋さを損なう筈。とすれば、計画の理性は再創造の許容量を全自然の限界容量以内に納めて使われている。こうして信の領分で人格か人柄が神に精しくなる程彼の侍従としての位も、計画理性度として神らしさに近づく。いわば計画知としての自然神学は学習者の中に崇威を根付かせ、我々のまねに関わらず何ら無尽蔵な全能さの前ではどの建築も仮住まいという佇みを趣味の空間で試しているにすぎなく感けさせる。
 宇宙建築か普遍建築の前ではどの文明建築も掘っ建て小屋だし、それらの意義は世界建築主としての神の侍所なのだから、祭るべきも又全知の計画者に違いない。