社会の置かれた文明場が極ことなる達をとぎ、その内の血筋を何ら違わせていくのはおかしい程。が人間は悲喜劇を演じているが、その
環り条件からの影響のみが彼らの意思を生む。もし主体から全構成要素をのければ無だろう。もしここに自我があると云う者は、魂が物でない実在な事を空想するが、単に心の間にしか之が伝わる余地なき限りそれを造るのが物自体なのを認めざるをえないかも。
体が微視な生化学でしれる物の間の働きなのは、現段の知識界では否みえない考え方の
団りがある。この観点から社会内でなりたつ個性をみれば、生殖細胞の設計度含む世界内実存は因果律での業をこめて一切が場に力を借りているといえる。意志の出来にさえ千差万別の差がある。故我々の主観や主体さが究極神性を持つと考えるのは常に越権だろうし、何より知覚基盤に縛られた個体を通す限りそれらはどれも不全だろう。こう思えば天皇は自称だし、現に宇宙内には想像できる限り数かぎりない野心家がおり、天皇の姓名どころか宇宙王や世界王の類いが皇帝としてキリなく生息中。自称天皇家の神格化が邪悪な結果を用いりがちなのは之らの為で、更に崇拝はいうまでもなく敬いさえも時に及んでは単なる錯誤に至る。なぜならもしその血統が悪なら存続の期間が長い程一族が悪業を働いてきた証なのであり、世襲独裁者の血統書は他のいかなる証明書よりはるか悪人の自己説明に等しい。
この為にある事情の下では、何億の人類の抹消さえ正当化でき、自称天皇はいうに及ばず地球型生命の一切を消す事すら正義に叶うかも。それらの生命体がより高い神性をもつ生態にとり害しかなかった場合は、常にそう判断されてよい。それらの生態は神性の高い生態に比べればどれも取るに足りない丈凡庸だからだし、もしそれらのあまり理性をもたない生態を消しても別のより次元の低い生態で埋められる。単純生命は容易で、これゆえ精神性の高さはその生態が生存権をより遍くもつ第一の条件とされる筈。