2011年1月22日

理神論批判

理神論は、自体の理論を神格化させる点で原理主義論のいいかえだろう。
 一般に理神論が人倫へ害を齎す程は甚しい。それは神の観念を最も卑近な私的空想へ近づけて恥じぬからだし、本来の超越概念を理論上の仮説とみなす僭越か勘違いによる。
 次の如く断言できる。神は理論そのものでは決してない。理論はthe-ory、つまり「神のもの」だが、神自身では決してありえない。神は全知全能全徳の源として実在を信じる者にとっての究極共有理念であり、理想下の被造物やそう類した形に比類できはしない。勿論いかなる理論をのべた文らしき産物や、かく類した数字数式他の記号、どころか心の状態ですらない。神や当の生態は実在する可能性が極めて高いか先ずありえるのであり、偶像化しえない現世な知覚基盤の超越の元に絶えず再起される。つまるところ理論を神格化しおくのは何より悪徳。それは特定の理論へ人物らを狂信させる許りか本来の神への信念を歪ませたり、実在を事実上否ませ傲岸不遜を自己正当化させさえする。神をも畏れぬ所業とはこの形容だった。
 真の神は各理神論者らを不信心者の業に陥れ、人間の限界と愚かしさを嫌というほど痛感させ、了いには地獄の住み人へ虚ろにして矛盾にみちた理論を悪魔の読み物として与える。彼らは自らの愚かしさの元に安住し、死刑への道程をあらゆる悪徳の実践に於いて代表するのだ。なぜなら神の被造物という謙遜の仮定すら取り除けばその知覚基盤の特有にして生得な限度にも関わらず全知への漸近が可能として当代の単なる理論上の枷を妄信させ、他者との不可欠な信仰へ至る道を塞ぎ止めるから。之は必ずや通信不全か閉じた輪な狂気増幅に等しい。閉じた系の混沌度増大は崩壊ゆえ。