趣味主義にとって最大多数の幸せとはその快楽の量感にもどる、つまりいかなる不道徳の乱痴気な行いさえ低級低俗の世帯にとっては量的快苦の原理の為に肯定されえるのでは、といった危惧がある。が徒労なのは、この場合の幸福は単に生理的機能の過剰昂進にすぎないか、又は反福祉的習性のそれな場合が殆どで、実際には当社会の最低限度規範の程度問題に返る。例えば動物虐めの如き動物功利主義のうけいれがどれ丈かは、当社会がおかれた各種の生態条件によっている。もし慈悲が極度の汎神論に及べば害虫駆除すら法的かつ信的規制の為に客観的不快であり、その制止が共有できる社会場の則として設けられう。同じく、殆ど他の人格的個性との名誉感情すら尊重されない日本の関西圏の様に特殊な適所もある。そこでは人格への日常的誹謗がおいしいという民俗語でうべなわれる。
之らの理解から、趣味主義が批判哲学、或いは倫理定義に期待しているのは最低限度規範のたえざる場所学的ひきあげな事がときあかせる。そして幸福とは実際には理性の自足、乃ち理想高さの程に返るので、趣味主義の立場は一切の有用さ、道具主義をもこの目的へ使える程度でのみ評定していく。生理的機能が過剰昂進の為にかえって損なわれるのと同様、一般の量的快苦はみな中庸を限度として各場所条件の為に節制の規範に留まるのである。結局、他者はどこでもこの規範の轍に於いて智恵への参加をする。