2010年12月4日

比較民俗哲学の徳

民族差はそのならわしの違いを交易させる為に有用。もし進化論を地政民族学に代入すると、たみならわしとは乃ち民族交易による近交弱勢の回避及び適者生存での強壮文化の確保の経過のみ。之自体は民族学仮説に留まるが、旧約聖書以来の民の俗差の擁護の本性は、それらの相互参照によってより劣悪な社会を避けさせ、より優良な社会をえり好ませる様な文明の功利さに返る。つまり、もし文化進展論が真なら地政民族学は社会進化論の補集合。そして全ての面で民族学は有益な影響をもつ。
 もし何らかの面で劣悪な文化があり、他方にそれよりまさる優良な文化が栄えている時、比較文化論がその主観に啓発するのは交易に伴うえり好みの傾向だろう。民の俗知識に通じた民族学者が頭達に含まれる時、その複数の比較検討からの忠告がない際より選れた民族状態に至るのは誤りなく、この意味で善なる友として尊ぶべきは自らの民俗を自身の少々の損失を省みず批判してくれる比較民俗哲学の考慮者だろう。
 仮にこの智恵がえられない侭で民族間交易を図っても、多くは悪疫や損害を伴い、場合によっては遠く民族淘汰される結果に終る。よって無際限な開国勝手論には矛盾、並びに文化系統の混沌しか起こらない。そして雑種一般はそれ自体の稔性とは別に特定の完成された才能には劣るので、分業の効率からみても選好の乱雑さは文化内の表現形質の出現率で劣った総体を示すに留まる筈。