もし何らかの面で劣悪な文化があり、他方にそれよりまさる優良な文化が栄えている時、比較文化論がその主観に啓発するのは交易に伴うえり好みの傾向だろう。民の俗知識に通じた民族学者が頭達に含まれる時、その複数の比較検討からの忠告がない際より選れた民族状態に至るのは誤りなく、この意味で善なる友として尊ぶべきは自らの民俗を自身の少々の損失を省みず批判してくれる比較民俗哲学の考慮者だろう。
仮にこの智恵がえられない侭で民族間交易を図っても、多くは悪疫や損害を伴い、場合によっては遠く民族淘汰される結果に終る。よって無際限な開国勝手論には矛盾、並びに文化系統の混沌しか起こらない。そして雑種一般はそれ自体の稔性とは別に特定の完成された才能には劣るので、分業の効率からみても選好の乱雑さは文化内の表現形質の出現率で劣った総体を示すに留まる筈。