2010年11月20日

理論と神の設定

人類は自らの立場に準じた世界にしか住まない。神の世界はもしそれを程の問いに還せば、程として精神度にありえる。精神をより事実に即せば理論的、となる。だから、人類が世界で望める神格漸近の程も理論のよさに返る。趣味主義は理想の高さしか淘がない。
 生産労働が理想と矛盾するという視点は、実は程度問題。物質を介さない生活はありえないので、神格と技術も程度に於いて漸近でき、又その種類の理想は技術を媒介として程度を示す丈だろう。そして実証認識としてみれば、技術論か工学も芸術と同じく加工理論に収まる。この範畴は理論を齟齬させたり阻むのではなく、形相や形の上で自然現象の人為的変形がどの型に当たるかを説明できる。アリストテレスの可能態と現実態の議論から今でも、形が理から離れてある訳ではないのが理論の分野にある。要は実証認知は形に限り、形而上知は理のみを問う。これらは単に(福沢が物ありて然る後に倫あり、と『文明論之概略』で述べた如く)先後の認識でも、どちらかをなおざりにして十分な理論とよべるものにはならない。結局、理論とはそれをつくった神話の創作。いわば神学とは理論体系の理解で示された独自の精神さのこと。故になぜ実証認知内では究極神が実在化されないか、されえないかも明らか。つまり全知が理論化されるべき世界哲学の完成が、同時にこの唯一絶対神の仮設を完成させる。知的設計は、人類自身の理想的数理型のあてはめ。十進法等という単純で偶有な組成を全知の設計者が採用する可能性は限りなく低い。だから知的設計神学は、世界建築学のいいかえであり、それ自体は自然工学の分野か芸術批評でしかない。