2010年10月26日

史政論

天才とか抜群の個性つまり順応しない才能を尊ぶ社会的寛容さの重さ、をさしていたミルの覚め方は現代にも再び教訓の価値を与え得る。彼らの独創性だけが、集団思考や全体主義化した同類項の中へも真理を提案できる。
 ヘーゲルなど天才より秀才を尊ぼうとする思考は、みなこの独創性こそ全ての文明の展開の鍵であるのを見落としている。もし天才にまったく他の追随をゆるさぬ独創性がなければ、必ずその成果が決定的進展のきっかけになることもない。要は文化素へ与え直す突然変異の結果が、その属した集団の他集団に比べた合理性を高める場合には天才がえりぬかれるのこそ文明の本来の意義。発明や発見、芸術とか技術とよばれていい殆どの才覚は、実にかれらかけがえない個性の為にのみ社会へひろまったもの。そして単に巧みな模倣を習慣とした秀才にはどれだけの努力や学習課程でも、その種の才と同等の進展を歴史脈へ与えることは出来ない。秀才の意義は、これらの圧倒の成果をまなび、できるかぎりならって自らの集団内の新たな習性へ、以前の格上げや固定される迄その文化産物の真似をつづけられること。そして両者の立場は大きくことなる。学校という体制が模倣の体系をつくる組織へみずからを最適化しているかぎり、永遠にその中から十二分な独創性は開花してこれないだろう。それは既存宗教組織から開祖が出現しえないのと同じ構図。但し、前述の如くこれらの学校には天才の成果を、同時代の凡庸な人々へもあらまし類比できる程度にくりかえし学習させる、という別の理由がある。
 模倣と独創の違いに理解が及ばなければ、社会がなぜ学歴についてのあらたな階級を設けたがるかもわからない。それは凡庸の支配率を上げ、いわゆる独創性の芽を摘み取り順応した人々の文化素を遺伝子の傾向もろとも正当化する為でしかなく、自体は単に誤った習慣なのだ。ミルが厳しく、かつ明晰に注意づけておいた如く、この傾向は階級秩序が最大数の支配率を占めるとき不寛容の社会として権力か場合によれば暴威を振るい易い。その場ではどの不条理も、つまりは悪意悪徳も多数派を占めているという根拠のない安心感のためにあたかも公然と正当化されてしまう群衆心理が働く。この症状を改めて衆愚の非道とよべる。この衆愚の非道への抗いは唯一、天才とよべるほど周りの形質とは一切が隔絶した非順応者や、少なくともその振りが習い性となっている疑い役にできる。そして疑い役は決して好かれたり、ましてや尊重されたりする役柄では全くなく、一連の史実や事件からみれば疎外や非難の的でありやすい。にも関わらずつねにこの種の疑義への最大級の尊重がなければ、衆愚の非道はいかなる多数決の原理のもとでもおよそ防ぎきれないだろう。このために民主政の本質的利点は多数派以外の公的意見を見逃さずに、俎上にのせる過程を維持できるというところにある。決して多数決の原理こそが正義を導きだすとかいう根拠のない俗理説からのそれではない上、往々にしてこの原理は投票率に支配されて均された意見を採用せざるをえない内実から、独創性を欠く。つまり最善ではなく次善以下の、しかも凡庸に納得されてしまうほど取るに足らない決定へ納まる場合が殆ど。天才が個性である様、集団規模はつねに最善の決定を民主政のもとでは少数派へまとめる傾向がある。そして我々が国家の組織へ言論や行動の自由をその寛容の土壌へ求めるべきは全てこの最善さ、乃ち古語でいう至善に止まる地位を保つ為。次善以下の悪徳の程度による群衆行動の決定はかれらへ集団の業として、国家の格式低い義務を果たさせる為のもので、いわゆる究極目的でもない。だから最高の独創性だけがその組織の行いへみてもやはり最善さの模範を示すであろうし、我々が大義の勇とよばしめてきたものも同じ。この種の勇気は福沢でいう一命を抛つべき一大事でしか証明されもしないが、実際の事態へみればあまねく、組織的最善さとしての政治集団の格式とは道徳の程度へ厳密に比例してしまう。
 人々が英雄さの定義を求めるのに、かれらの道徳がいかに究極目的の理念と一致しているかを問うのは当然で、多くは後世が歴史の真相をふりかえれば必ずその善意の判断はあきらかになってしまう。そしてこういう歴史法則を、天道の是非として問う体系は史学の的。且つ真の歴史法則は事実上、過去の最善の規範を理解することによって導けるのでそれは温故知新という歴史哲学の核心に叶う。べきの問いからいえば、正史はこの真の歴史法則を導くための世界劇場を用いた方法論なべき。政治学の内、支配者の智恵が正しい史学にあるのは以上でわかる。