2010年9月30日

趣味と達辞学

人がその生態基盤を類人猿に負えば彼らが本能からくる悪徳を完全に失わせるのは難しい。大脳の造りが既に、社会的理知が後発の身体組織な事を示している。理知化には時代に応じた程度の向上がみられる已だろう。
 人が本能の美化として感情の能力をみいだした時から、感情のゆたかさにしか生物としての基礎を還元しなくなった。この習性は文明を用いた。法治的合理化に叶う感情だけが社会で摂取され消化されていく。これがなぜ退行的情緒が社会で非難を受けるべきかの訳。かつてそれらの感情気質が与えた社会環境は暮らし心地のよいものでは少しもなかった。道徳的感情へ一致した直観だけが正当化できる。人が理知を発達させる事で社会環境を独自の、しかも秩序立って理解できるものへ導いてきた以上、カントの洞察が趣味観の基礎を与えたのは道理に適っていた。この種の趣味を除けば人はその感情の飽和に少しも安住できない。もし彼らが類人猿への退化を望まなければ完全に。実際、人類とよべるだろう生態のどの側面をきりだしても理知との対比でしかその感情的表象は観察された試しがない。
 為、優れた感情は常に趣味の域にある。この趣味の良さは全て芸術的表象を伴う世界を自らの能う道徳的見識と一致させようとする消費生態へ付随する。人生の究極目的を現実態の程にみれば、客は必ず趣味へこれを兼ねる。理性の完成は各生産者らとその可能態の配置を最大の調和を計る地点へ導く能力、つまり我々が神格へみいだしてきた森羅万象の洞察と創造への理解度についての学習による。自然科学は神学の分野。そして神学とよばれるものは、もしそれが古典的なら宗教解釈学であり現代的なら哲学だろう。一般に原理主義神学はこの宗教解釈学の内、文章研究の名義と捉えられる。これらと信仰の関係は、単に神話かつその程度として語られた学識の解釈のよさ、乃ち考えの的確に当たる。この的確さは実質は伝達の問い達辞論哲学または達辞学であり、いわゆる間柄に於ける中庸を望む。異なる言葉や語彙の間にあって最もふさわしい言辞は、必ずみつけだせる上にそれは結局、相手の文化史学や地政背景の理解によっている。