2010年9月27日

科学の道具さ

現代が科学か知識の時代だった事は疑いなく、特にこの知る事が信じられる程は先進国を自称する地政で甚だしい。ドーキンス氏やホーキング氏がこの先鋒なのも、ウィトゲンシュタインを受け身で消化したなら当然らしい。
 そこで宗教権を否んだ者は、道徳が実証さの発見以後も依然として社会の命題なことを見逃してきた。社会学の諸知識でも、現状をこえた洞察や提案は必ず形而上認識の援用ではかるしかない。科学的真実は論争の的を完全に失わなくとも、信念としての採用と違う領域におちつく。これは同じ技術をどう用いるかに趣味が関わる如く、知識という道具の応用には主体となる哲学がいるから。究極でいうと知識は特定のわざを実現させる為の道具。この道具さを、目的とすりちがえる論旨は滅ぶか、最低でも他に利用される。道具の重要さは誤りないとして、論証界での考えが全く無用になる社会はないだろう。法規範そのものが何らかの道徳論拠なしには立てえないことを思えば、哲学とよばれる領域の議論が地域の趣味、要は風趣を洗い道具の扱いをたくみにするのは誤りないといえるだろう。
 無秩序や混沌から程とおい社会があれば、そこでは哲学的理想がみつけられる。