2010年9月24日

考えと場所

場所倫理はそれらの偏りを避けさせる。もし偏りがあるなら、場所倫理化の速度変異の為。乃ち考えの速さが場所倫理差の訳。
 経済活動それは資材のはこびゆきでこの差をまぜこむ。実質は経済量はこの交易量。故経済活動が行われる地域では、場所倫理の偏りは平らにされていく。場所が違う事へは交易量の偏りを正す意図が、その文化変異の理となる。もし合交易さにかなわない適所かすきまがあれば、必ずその場の倫理は保存的かさらに特殊化する。つまり倫理の普さをとえば、人は文明の中央での平均を求める他ない。だからヘーゲルでの普遍理性論は、実は普遍文明主義でしかない。それは倫理の平均化で、最善の倫理への道とはいえない。完全な場所倫理は、普遍文明を除けば地域偏差でしかとえない。偏差趣味の悪意、恣意による偏った地域差別。或いは部落趣味も、また普遍文明主義の片面なのだ。これらをといなおせば、主観の世界精神化への参加意志としての国粋主義の風も、実際には地域の場所論の一類だった。普遍文明主義そのものは場所の方法論でしかないし、実際には趣味の一種。
 もし考えの速さをおもえば、個別文明やそれをとりなす地域文化も場所倫理の重要な先鋒でありえる。実際の特殊化した倫理は、これらの個別文明にとっては摂取すべき希少な資源だろうし、それらの集め方によっては普遍文明主義ではない何らかの特別な地柄をうみだす事がある筈。