2010年8月24日

場所の理

宇宙界との協調か適応は普く地球風習性を否定しきる訳ではない。宇宙文明に母系をもつどの生態も何らかの出自を余儀なくしている。世界では生態に必ず起源がある。
 もし大文明のそれと小さなそれを比べれば明らかな生態造りの差がある。
 世界の本質は趣味観で必ず異ならせられる。唯一世界観はありえない。地球風の世界観もその哲学的趣味構造を重ねられる丈で脱地球風の趣味を自らの知覚基盤上に実現し難い。もし地球風の外の趣味機能か眺めをえたくば、その為に感覚器官からの改めがいるだろう。つまり地球型知覚の生態機能、いわば知性の場所か人種らしはそれ自体の微差や揺れを含め認知条件。系統発生が特有の感覚器官やその機能を比べて強めたがる因果は何れ、宇宙内完成な特定知覚に至り易いが全てどの理想も絶対理性には至らないだろう。外宇宙の概括全知か少なくともその全能想定力は必ずや個別の知覚能力域をこえている。内部人格により森羅万象がつくりえる可能性は自ら共の造りが操れないが故ほとんどない。結局、神の徴れは民族精神を除いて考えてみればみな理想の外にある。だから何れの知覚も趣味観で全知に至りえないばかりか自らを造る精神の技術に追いつけない。自然科学を自然神学と呼んだ哲学者はその限界を悟る故戒めを含めてそうしたのだろう。そして人種や品種にみた個りが宇宙文化に捧げられる最大の認識や知識からの貢献も同じく、道徳神学を補完する一応の実験たる部分解析による創造力の真似事、つまり趣味かrecreationなことだろう。
 全て神学か理論の目的は神らしさの模擬。そして精神度は生態組織が理解した世界構造の合理さに由来し、神の侍として万物の趣味者は場所で営まれるべき理を体現する為に地位を指定される。