2010年7月7日

教育と幸福

教育に大幅な差のある両性が自然に円滑な婚姻を結ぶのはごく難しい。この事象は、例外あれ教育が価値観を置き換える照査。つまり婚姻を、両性の共通課題としての子育てへの注釈からより複合した営みにするのが教育背景と思われ、それは伝統あれ常に適者生存の規則を、人類社会の教育環境の違いで示す。
 内的増加率の高い生態、之はより高い早期死亡率から肉体労働者層と類比できるが、彼らの属した教育世界がもし彼らの価値観で要する婚姻の為の準備に、比べて少ない学習課題しか科さないとしたらそれが量産の適応だからだ。もし彼らの生態が一般にそう思われる通り軽視に値するなら、彼らが低い教育の程でも容易に婚姻生活へ入り込むからで、しかもたちの優れない彼らの中には婚姻制度の枠組みさえ要しない者がある。つまり彼らが疎まれるのは主に非内的増加率の適所に於いてで、彼ら自身が望ましいのは似た種類の生態が多く生計している故遠慮しなくて済む世界。こう考えれば幸福という価値観へ向けて社会を改善したくば、すみわけ自体が行政面で有用。低い教育段階へ適合した生態は彼ら自身として満足なのだから、彼らが行う犯罪、家庭内外での暴力、中絶その他各種の不埒、子孫への最低限以下の投資などは彼らの信じる幸福なのである。
 民社思想が過つのは、誰もが非内的増加率風の生態様式を望むかどうかを悟らない所、いわば価値観のおしつけにある。是政者のそれは通常、全生態の中でも彼ら自身の地位へのぼりつめる為要した手段ゆえ、特殊化を免れない。我々の教育生態についてすら自由主義の考え、いいかえれば公的寛容とそれに伴う自己責任が、彼ら同士のすみわけと併せて最も幸福への各適合に叶う、と理解すべき。最低限度の文化的生活という安全網は、公的に許容できる見苦しさを身近に感じないで済む面でのみ有益である。
 もし彼らが遠い島国で勝手に堕落していても、我々へ迷惑がおぼえられない限り何も問題が起きない。同様に、違う地域で各々が想像の限り隔離か接触確率を低められていれば相互の幸福は乱され難い。乃ち層秩序、又は生態に応じた集団秩序を行政計画内に収めるのは、質的功利を鑑みるには必然。それらの上下関係論というより、すみわけの為に。