特定の文面や絵面と言葉の対応は、つまり脱構築の論拠は、音声や発音(特定の周波数が定型化して模倣か複製されたもの)とのそれにかけて均しい。象徴対応さは、確定できるそれを偶有化したがる。一切の芸術という試みはこの象徴対応の権限や関係を自らの感覚の特殊さに準じてくみかえたもの。芸術業は象徴対応さ、つまり意味の突然変異を文化上へ抽出した感覚界。これらの試みの目あては文明でなされる諸々の意味世界を何らかの自らの影響下に導くか誘うこと。単なる誇示自身を理由としたそれは複雑化を、意味対応の関係そのものをずらしつける中でなりたたせる。いわば自己芸術界か純粋芸術は各種の予期されなかった意いを社会と文化場へたきつける。散種とか公演の意図はこの己らしさと世間の際限ない新たな対応の象徴さがし。
実用主義のもとでは純粋芸術界の発見は難しいか、先ず機能にしか見つからない。それらはどれも連環した手段相互と絡まって特有の主体にとって役立つから実用性指標ではかれる以上、用途差や意義差で別の価値づけのしたで使われる。いわば目的に合う体系は、そこでは機能拡張の支配下に置かれてしまう。実用主義内で営まれる道具思想は病弊。結局それらの適応自体は、思想を考えだした者らの意図にかかわらず使用者にとって都合のいい自己形成を心情とする中で家畜化されたかした自由に戻る。ミルの功利主義とカントの人格主義の間にある断絶は、それらが目的を利己心の完成に見るか、それとも利他を兼ねた社会集団に見るかで趣を異にした結果。上述の自己芸術界は、自体が目的という社交さを人生という演劇におしひろげる。つまり究極の趣味、各種の機能や用途をふされた道具らが社会な手段と相俟ってつくる達観は、単に世界の鑑賞か理想というアリストテレスの時代からあった眺めの幸福に反る。思想そのものは手段で、純粋芸術へみればその解説か分析方法に留まる。
現象学か論そのものはこの芸術分析かわざのしらべに使われ、分析哲学でえられた批評程度は大多数の趣味の向上か傾向づけへ益する物。