2010年7月17日

理解

社会建設の理由とどうすれば社会が改良できるかの差は重い。社会建設自体は自己目的化できるが、社会改良の旨は必ずしもそうでない。つまり人類は社会を建設作業自体で結晶させる。もし改良向きの言説を啓蒙、社会建設そのものの目的を文明とよぶと、之らのめざすのは同じ理念でない。
 いわば啓蒙は大多数が文明を得るための方便で、我々が分析哲学の流路から得るすべても同じ。もし文明の理念を探れば、哲学の理由に返る。我々が世界を理性で捉えようとするとき、つまり通用語の使い方を守ってよのなかを捉えるには常にある哲学の慣用が要る。結局この世で理性が認識できる世界の目的や理論は分析哲学の詳細からは得られない。それは啓蒙の領分で、寧ろ言葉の用法への知恵を通した信教のため。
 趣味哲学は功利主義の審美化。とすれば、文明の理解へはこの方法か仕方で、最大多数の最高幸福を理由ある生活のもとへまとめられる。使用者の理念が雇用か利用される彼らの趣味の向上に叶うとき、芸術行為かたくみ自体が理想的となる。
 理由は哲学でしかえられない。世界宗教系の全ての信教は古人の哲学や智恵を守る役に立つが、その現代化には常に注解が要る。原理主義と哲学は、この解釈論の合理づけの才覚で矛盾しえない。そこでも最高の趣味者のみが最適。