2010年7月21日

平等と國柄

差別かすみわけでの合理化が人間らしさと彼らが想定する能力と相反するとはじめに主張したのはおそらく信教による解放感を意図した個りだった。この個りは所有自然状態で想定できる社交に関わる瑣末な分別をも、超越の理念でのりこえようとした。慈悲や博愛として現代認知されている思想はこうして、不利者からの言い分を普遍化した結果らしい。所有社会主義は、この立場の延長。故信仰界をのぞいて我々が普遍性か慈愛を望むのは理想かもだが現実にそぐわない。負担は分業の条件ですらある。つまり神以外の特性は、必ず偏差を伴う訳。能力外の平等と権利の混乱は遺伝と獲得の形質差に返る。遺伝への差別を区別とよべば、この区別へは合理な社会さがある。もし学習等で補強した習性があれば、この偏差はつねに差別化を要する。いわば個体差が全て差分の訳。故我々がアメリカ独立宣言から引いた近代の平等観は、法で社会保障の領分に限られ、一般に機会の平等へしかあてえない。
 森羅万象が同じ姿をとりえないのは縁起体な宇宙を仏陀が理解した時点で既に物質界の常識かも。同じく社会主義は不可。機会の平等は能力区分での分業や将来性は高いが現時点で使い道のない形質をやみくもにたやさないため有益で有徳。
 その社会での淘汰速度は社会保障の猶予とよべる。この領域にすらかなわない生態は当社会でのともにもたれる適応からの脱落で、事実それは生き残りをおもいえがけば足手まといの率といえそう。どれほどの足手まといを養えるかは、事実上人口扶養力余剰、つまり彼らの糊口を潤す分量をこえた衣食住医の付加価値による。よってそれは数量でも方式でもあるだろうが経済能力の比べ低い集団は、剰余人口な寛大社会をつくりえない。我々の経験する差別は、精神状態をこえて、物質状態では経済勘定の剰余価値不足による。無限の経済状態は当消費段階の資源に限りあるうち疑えないので、社会の体面にあらわれる各種の寛容思想は彼ら構成員がより富裕な理由のみ。と同じく完全平等は理念内の神の特性にしかおよそみいだせない侭たりつづく。消費段階の進み方は物質面での平等が、単に比較文明内の問題と明かす。結局我々は田圃の抜き差しならない検討らしき隣の田んぼの青さ競争を通じて似た生産さでありながらより所得現象に優れた生計界をとげる丈。結論は、平等思想の究極は個体形質の選り好みを愛想に与える丈で、それは他者奉仕を通した構成員間の機転を試す結果だろう。人類間の差が最後に生み出すのは機知の高い生態とそこへの適応形質のみ。これは現状でいう人間らしさのうち偶有さへの形質全般の追従らしく、主に特殊化していない能力のうち直感にかかわる。社会内進化でまとう要素の浮動は最終では大多数の直感のよさ、即ち審美文明をとぐ。そこで暮らす集団の審美能力が総合した社会で起こる現象の中身。故形質間の協調や助け合いも単に彼らの直感がその余分を淘がずにおくか、なる同種間勘定による。そして想像できる最高の寛容も集団単位で社会がゆるせる特殊化と扶養力余剰のとりひき次第。審美文明度の低い社会でえられる平等状態も低い。時間流率な社会内進化の緩急は必要十分な平等状態を経済的にしか示せず、この単位を國とよぶのは適当。審美文明度は國柄と同値。高い平等状態は生産力に比べはるかに所得が高い社会に限り存在できる。この能力偏差は、直感の高さが成員間に広がれる条件か、つまり事実上過去の文化過程が場の自然誘因をいかに偶有的異系処理で稔性を高める方向へ導けたかによる。もし國の単位を狭めても広げたのと同じ複雑系な相似が見つかる。平等は絶滅による非効率のない理想設計が叶う偶有界に、仮の分業で存在している。理解は平等の部品か細部で、協調にとり基盤を示す。消費段階が理解度と並行するのはこの為で、どの國柄も個りをこえてみれば総合理解度を文明の浮動か定着した文化素への表現にあてえるだけ。