2009年7月25日

文事優性の発生論的展開

甘えるか甘やかす分量がある感覚遺伝的傾向について甚だしい時に、その一族は決定的に進化しやすい。この道理は現生人類にとって、少なくともその一部の文明人に於いて、学識とその表現力を問う文事に全く次元の異なる進化した形質が生じ得る証拠であるといえる。
 結局何かを学習するとき人類がおもに利用するのは書き記された言葉であり、その言葉を用いる才能に於いて、おそらくある程度より視力の近視可塑化傾向があって且つその遺伝された眼筋力が尋常より強壮な場合、決定的な文事能力が発揮され易い。遠くの文章を読書するとかいうことは狩猟で凝視の要る野生条件下でもなくばほぼありえないし、武術や運動競技の特殊能力への程度のつよい選好はこの決定的進化とは大幅に異なった異様に固定化された形質とその性特徴についての変種へ向かう奇形化作用をも伴うだろう。
 だから人類が既に獲得され確立されてきた多くの文化素を一気に揚棄し、それらを幼生早期に習得済みとさせるのは学習適性としての文事形質であるのだろう。そして少なくとも文化について一定の習性が性選択とその増産場で固定化し易いというのはつまり、将来の文明人種の中には胎生の段階で我々の幼児期に到達する系統発生素は経過される余地があるということ、つまり「個体発生とは系統発生の発生遺伝過程への連続的編入である」のに等しい。
 これらの道理を十分理解する者は、我々が文事を通じて学習してきた各概念素が既習的となる未来、即ち知能の極度の発展を後代へ確実に予見するだろう。そこでは、本能行動への抑制すら必要なくなるだろう。よりよく文明化された彼等は文化上にそれらの本能行動を牽引する誘因を根絶しているはず。人が他人と食事することも大昔の哀れむべき蛮風としていずれ文化面では消滅する陋習であるかもしれない。
 実際、ある種集団が進化へのより大きな誘因を文化へ定常化できた場合、その一族は他の種集団と混成する要求を自ら持たなくなるので、かれらにとり大部分の現生人類が行う出鱈目な配偶は害あって益はないことになる。失われないだけ決定力のある文事適応への突然変異はどの種集団を母体としてさえ等しく広がって行けるのだから。ある身体能力の増大は他の部位から栄養を奪う傾向は経済的配分の要素にかなっており、文化の過半以上は学習され得るものとしての文事へ集積し易い限り、我々が現代について少しよりは知っている様な各々の非文事活動の諸形態はいずれすべて趣味化しのちには過半数が絶滅して行くだろう。たとえば将棋やチェスという競技は戦争を実行していた時代の名残でありその儀式的結晶としてのリクリエーション化にほかならない。相撲は恐らく力自慢の喧嘩の、野球は部族間抗争の、サッカーは狩猟のそれ、やがては農耕やデスクワークもなんらかの自己目的化したルール内での運動競技に編集されてくる。そして、もしかくの如くなくばその種集団は学習可塑性を世代間で少しずつ失いつづけるので、他の系との比較では常に競走後退的となり、終いには淘汰されるに至る確率が高い。以上を相応かんがみると読書の習性を極端に甘やかすことは、我々にとってどうやら決定打となる進化誘因かもしれない。その点を考慮して読書を辞めさせるということには、誤った過度の視力矯正型治療方法による眼病や身体衰弱の防止のほどを除けばどんな優位さも見当たらない。