2008年2月19日

世界史のcritic

比較生産費説を鵜呑みにして国際分業を配分的にのみ推進すれば、調整力の欠落によって国際格差は拡大するばかりだろう。それは経済信仰としての近代文明圏へ、何らかの暴力によって均衡を回復しようとする、宗教的報復をもたらす他ない。そしてそのような一揆そのものは明らかに「正義」に則っている。正義とは少なくとも部分的正義に関しては配分と調整の間に働く中庸性だからだ。
 経済文明と世界宗教は人類史が生み出した配分‐調整の二大潮流。両者の均衡度だけが国際関係に安定を与える原理と言える。これを世界史の原理と名づけえる。我々は世界史の原理を外れては実存しえない。まるであらゆる個人が同時に人類社会の一員かの様に。
 世界史の原理は、ある時は戦争となり、また或る時は開化となって民族を導く。普段は目に見えない空気として辺りを満たしている。その力動は人間に対して功利と喜捨の調和、善のentropyを与える。我々は誰もみな、地上に拘束される限りこのような普遍愛の宿命から解脱しえない。逆に自ら進んでその意図に添えるに過ぎない。国風はこのような普遍愛を実現する為に、地球から与えられた人道手段だったろう。国際分業は同時に、世界史の原理を国風の顕現として協業する方法であるべきだ。つまり、その秩序が米英白人中心主義で固められてはならなかった。
 功利性は国風の一特徴ではあれ、実際には他の諸国風に比べて些かも高い価値を有するものではない。例えばイラク国民の内、厳格なる信仰に殉ずる覚悟を維持促進なしえた過激派の人物の一命は、その果敢なる勇ましさに於て、ただ単なる悟性過信に基づきながら、格差の自由を主義する某大統領のそれにも何ら劣るものではなかったかもしれない。
 我々の中の勇気は自由の為だけに利用されるべきものだろうか。それは時として大義を失わせ、果敢な実践をただの蛮勇へ貶めることにはならないのだろうか。孔子曰く「義を見てせざるは勇なきなり[見義不為、無勇也。]」と。これは善意志の自律を唱えるカントの云う「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」とほぼ一致する見解ではないのか。我々は絶えず新たに自由の定義を問わねばならない。元来は博愛の神様の前での万人平等を意義した筈のそれがいつ何時、単なる利己主義に堕するかも知れないから。
 義務は国風的なもの。それは一律に理性至上主義として格率化されえず、されてもならない。真実にuniversalな徳は同時に、国粋極まった最純の国風においてのみ発揮されうるから。ひとえに幸福のeidosのみならず、倫理的中庸の度合いそのものが国風的る。従って国際連合の究極目的とはこれら千差万別の国風的正義に中庸を与え直すことにある。それが世界史の原理に対して普遍的正義の基準を掲示する役目を果たす。比較生産費説は国連関税の絶えず新たにfairな調整のみならず、自体の内側から揚棄脱構されるかたちで否定すべきだろう産業種別は文明経済の貿易膨張を国内完結する目標で微分せよ。
 もし格差が貿易差額に生じる搾取を原因とするなら、というのは技術革新は如何様にも防げず、また同じく労働者の民度は国風に由来する以上、マルクスの考えとは違い真実の余剰価値搾取は生産‐消費の間に働く貿易の際に行われている。これが鎖国しなかった共産圏に自己破産をもたらす原因である、我々はある国家が真に国際的となる為には、生産品の特化ではなくてむしろ逆にその偏りを様々な工夫によって少しずつなくしていくべく努力しつづける必然を負う。これは遠い未来においては如何なるmono cultureを強いられた国々にも自主的な脱出口を導き、遥かに豊穣で、しかも全く独特の文明を様々に栄えせしめる為に、各国民が一員の自覚ごとに科せられた当為。そうでなければ永久に功利的産業に特化した先進国は飽くまで格差の頂上で世襲の退廃を嘔歌するばかりだろう。それはいずれたがわず盛者必衰の史記に新たな項を小説する。
 世界史の原理は又、中庸均衡力のいいかえであるから、我々は尚更深くこの原理に適応するよう務めるに如くはない。従って経済は救済と相互作用に基づいてのみ有効である。国内外の世界中に、中道を守りながら貿易と寄付を兼ねることが、人道を進む方法。