君もし精神鍛錬を志せば敢えて苦行せざるべからず。蓋し、過剰のそれは奢恣同様無意識にして健康を蝕む事なれば、修行には道理あらざるべからず。即ちこれ求道者の限界突破の反復勉強にあり。ある格闘家曰く、腕立て伏せの勉強に辛くなりて後、日々残り何回延長しうるかが勝負なり、と。誠に至言なり。もし自分自身限界を認識しつつそれを超越しようと努力すること、つまり自己覚醒を道理と云う。無理とは己れの実分を知らぬ無謀の徒を言うなり。例、初心者がフルマラソンに挑戦して中途で倒れるが如し。もし日頃の練習を欠かさず、ハーフマラソンを初段の目標に自分の体力を伸長させる時には無理の余地なきに似る。
又、人もし好き嫌いを失くしたければ如何にせん。われ云わんそれ贅沢症なりしやと。毎日の食事に前菜の習慣あれば何人も残す事あたわず。なれば溢れた奢侈を故意に節制し、自らへ与える栄養素を嫌いにも関わらず食べねばならぬものに限れば治る訳なり。元来、食わず嫌いとは他の代替品目でも構わぬと無意識が指導するが故の合理化反射に他なるまい。もしそうする必然ありて、無意識を欺かばこの環境への甘えは著しく革るもの。例えばいかに勉強嫌いな子どもといえどもそれ以外に暇つぶしのあそび方なくなればやらざるを得ず。もし渇いてジュースが欲しくても水しかなければこの上なく旨く有り難がる。空腹は美食の基本の如き此なり。
以上を熟慮すれば君よ、人間の高度を造る最たるものこそは我慢なりしやと覚え書きするが宜しき。もし欲求に早まれば悉く低落す。義公の曰ゐしと云う堪忍とは抑圧遅延による昇華の謂いに違いあらずや。