2007年2月27日

理説

言語に到達可能な範囲にしか我々の形而上学命題はない。造語あるいは文脈による新規造念、乃ち哲学的批判は、唯一の道徳創造過程。精神が生命体の暫定的粋であり、目的の秩序中枢ならば、かの思考もまた、結局は概念の整理に由来する。よって哲学の普遍的推究とは形而上学概念の用義を文明化する手順に他ならない。これは文化的な作為。なぜなら言語は語属に依頼して合理化を果たす。
 哲学は目的論的な試験。道徳定律は文脈の指導によってしか再創造されて行かない。しかしこれは現代語義である以上、多少あれ時代の流行に左右されるから、哲学には語属の分置という別の作為も必要。しかしながらこの一語属も別の語属との対比によって変質する。とすれば、究極のところある命題の用義的な確立とは、多少あれ国際的・普遍的な思想潮流に対する倫理計画のみ。よって批判哲学は民族善導の手段。既にあまりに確立されているがゆえ批判されづらくなったかつての理説を、我々は宗教と呼ぶ。
 哲学は方法的懐疑によって宗教の信仰に対置される。脱構築とは理説の反対概念だ。尤もこれ自体が理説化された後には保障の限りではないだろう。