2006年3月1日

Future Economy転回仮説

現代人の未来は機械の開発による労働(works)からの解放にある。
私的財産が充分なら、工業的従事のもとに働くことは趣味になる──かつての仕事であった農業が今や家庭菜園などでそうなったように。
そして未来経済は知的gameに過ぎなくなる。

この次元に先んじて到達できるのは情報化社会の上流知識人だろう。
なぜなら彼らにはそのeconomic ideaへ高飛びするゆとりがあるからだ。

 専ら今日迄の社会階層意識が有する上昇指向[pragmatism]は、要するに《工業の原理》から脱出する為の悪あがきである。
それは〈歯車〉へ適応する為の専心であったし、学歴社会というのはこの社会level──工業制経済──における脱農業化ideologyに過ぎなかった。
彼らは機械の代わりを承ってせっせと良妻賢母を探し、子どもを産み育てるマイホーム主義者なのである。
「社会貢献」という用語は彼らを慰めてピラミッド建設人生の不条理を諦めさせる為に、巧妙にプロパガンダされた。

 だが情報化は『創意工夫』を生産する社会様式である。
こうしてゆとりある階層のbusinessに優秀な一部から、開放的労働形態を伴った新たな支配階級が発生するだろう。
彼らは創造的知性において至高であるが故に世界中の富を極めて非工業社会的な速さで集中させる。
しかし我々はそれを憂うべきでも羨むべきでも無いのだ。なぜならそれは避けられない唯物史的止揚の結果に過ぎないし、
寧ろそのますますの促進によってしか「超資本主義的社会福祉の循環体系」即ち共産的資民制は決して達成されない。

[蛇足。現代日本は知的及び国流的な国際位置からこの様な見えざる社会革命について最も先進する。
韓国においては儒教の尾を引く《長幼の序》の足枷によって充分に成長できない。
 言い換えれば、21世紀日本の社会風紀は民情と共に一新し、若者と老人の経済的威厳は逆転するだろう。
この現象を平成維新と名づけよう。ここでは上任下(じょうにんげ)──客観的立場の上のものが、自ら役職をより社会階層下の優秀な若者に譲り渡す気運──が発生する。
それが一度世論に感知された途端、民情は新進気鋭の若者を最高の志士として称えるに違いない。
IT社会に至って日本人倫は変容し、年齢や役職、学歴や立場ではなく「人物信頼」の独眼判断に、新たな社会道徳は委ねられる]