2006年2月17日

脱マルクス経済学

剰余価値の搾取は、一般に民主資本主義社会において企業・教育機関・政府の三位公認の元に、学歴階級制度に準じた知的能力格差に応じる分配的正義として、私民達にさえも積極的に肯定されて来た; 知力支配の序列。

人類は王政を超えて、ヘーゲル的自己、自由精神の意志のままに民主制を実現して来たはずだったが、貴族と奴隷のhierarchy(階級制)の構図はwhite colorとblue colorに形を代えて自由主義という美しい名目の下に、巧妙に隠蔽されたのである。

為らば現代の民治的正義とは、適度な分配の政徳、福祉制度の中庸な奨励にある。
 もしも社会共産主義国家が既にもつと誤算すれば我々は大いに無駄な遠回りをせざるを得ない。
なぜなら需給の均衡と産費の開発による活発な市場原理を利用せずにして経済産業を興すことは、人間という哺乳類にとっては未だに困難だからだ。我々の世俗は神には遠い。理想郷は、創造的躍進に対する限りない無欲を宿命づけられた労働ロボット達にとってのみ現実的である。

 世界に生産的で且つ賢貴な金持ちがたとえ少しでも残されていたら、彼らこそ経済人の名に相応しい。
 思うに、蓄積した利潤の自由で最適な恵与こそ、民衆間に富豪を有する最高の意義なのだ。
資本主義経済こそは個人の経営知的格差順に任されたこの倫理的恵与の原理に則って、我々にとって正当な根拠を持ち得る; 資民恵与。