実用主義は個性にとってあらゆる情報選択処理を最適化する手法。趣味という側面。何にも役立たないからこそそれは趣味的であり得る。つまり、自己目的な遊戯。創造的である為にはこの趣味主義がなければならない。かつてアリストテレスが幸福として定義した理想の活動はすなわち、遊戯。それ自体は益にも快楽にも、或いはまた適応的成功にも値しない全くそれ自体で充分なものとしての遊戯が趣味。
情報産業はこの近代工業社会からは軽蔑されてきた、何の役にも立ちそうにない趣味だけを商品にして、生活して行ける可能性を現している。新しい媒体においてhardwareやsoftwareが整えば当然contentsとしての情報が要求される。こうしてあらゆる趣味は売れる。ならば、産業革命以降、工業がもたらした社会の為の有益性への無心の信仰は突き崩される。
趣味主義はこうして情報産業社会の生き方を指導する1つの思想であり得るだろう。しかし、闇雲に快楽を追求するのは趣味の本質ではない。それ自体快楽に対する中庸的自制を要求している。花看半開、酒飲微酔、此中大有佳趣(花は半開を看て、酒は微酔を飲む。佳き趣は此の中に大いに有る)、洪自誠『菜根言単』。つまり人が趣味主義を貫くにはやはり、万人の幸福へ貢献するという個人的充足からの飛躍があるだろう。さらに追求すれば知り得る生態系そのものをますます自然にする、という人間中心主義からの脱却も可能になる。いいかえればpragmatismの限界は人間中心主義にあった。
我々は人生の主義を趣味として捉えることで、自然になれる。尚ある対象を絶えざる破壊と構築の目的作業であると考える以上、その立場はdeconstructivismに近づく。