劣った人々の間で、優れた人が好評されることは決してないだろう。
このため、日本では有為の人材が陰湿な衆愚からつぶされてしまい、立派な人格はそうと評価されることは永遠にありえない。なぜなら、日本人一般の性質が極めて相対的に陰険だからである。
日本では他国民より明らかに意地悪行動が多いのは、その集団性が皆の安寧や公徳より、単なる悪意からきた悪平等を最もさきに求めるほど、邪悪だからである。そこでは正義ではなくぬれぎぬ・冤罪が常識化されているため、善良な心の持ち主は一人たりとも生き残れない。つまり、日本は人類史にとって最たる悪例としてあるのだ。
逆に、日本人一般、こと時に中華思想に由来した自己中心的な傾向の激しくある関西地方や、あるいはその大きな影響下にある上に系統的共通性が高い西日本の連中が喜んで持ち上げる類の人々は明らかに劣悪な心情の持ち主で、世界の反面教師となる様な、根っからあしき人物が甚だ多い――例えば内乱、侵略、外患誘致罪人であるところの坂本龍馬や吉田松陰、西郷隆盛など。或いは姦淫小説家であるところの紫式部や、差別主義者であるところの自称天皇一味や清少納言などだ――。それは、彼らの心から共感する本質がイケズ、こと、性悪さだからにほかならない。
この種の悪性を自覚してよい心を持とうと努力するのではなく、「もののあわれ(もののあはれ)」と呼ぶ不良自慢の自民族中心主義で糊塗し、自己正当化した本居宣長、小林秀雄、茂木健一郎ら(いわゆる日本文学批評の三大悪人)は、彼ら自身の悪魔的性質と共鳴する邪悪の弁護に心を寄せた点で、同時代でその弁舌に影響を受けた人々ならびに後世に大きな公害をなした人々だった、といえるのである。