悪女は道徳知能はじめ、認知力や判断力が一般に低く、善悪を進んで取り違え、下衆に発情し馴れ合いながら、尊い心の善人を自ら捏造した犯罪にまきこみ罠にかけ、濡れ衣で辱め平気でいる。普段の言動がおかしければ、或いは行動が善悪を明らかに取り違えていれば、その女は根っから愚かな悪女なのである。悪男悪女の行状が改善される事は根本的にありえない。それは生まれながら愚かな者がどう転んでも大幅には賢くなれないのと同じだからだ。道徳性も賢さの一種だ。
この点で仏教や儒教以外の世界宗教、具体的にはキリスト教やイスラム教などは偽善を語っており、現実には悪男悪女らは救われえないのだ。
私は数多の人々を観察した。又一定のやりとりで世人の行状を調べた。全体に共通していたのは、上智とは下愚とは移らず、と孔子がいう通りの有様だった。釈迦も同じく、愚か者は千句をきいても一句も理解しない、という。彼らは世間の現実を知っており、悪男悪女とは即縁切りしかないと考えていたのだ。
私は諸宗教の教義を実践で確かめていった。イエスの理論は明らかに間違っていた。悪人に加害行為をされ黙っていても更に被害に遭い続けるだけで何もよくならない。なすべき事は強制力で悪人を退治する事だ。この点ではムハンムドの方が遥かに正しい。ゲーム理論上もしっぺ返しが無限防御より優れている。
同じく、悪男悪女へも博愛を唱えた宗教は全て誤りである。その種の人々はいわば世界に害や禍をなす為に産まれてきたのであり、どこまでも反面教師でしかない。行状が改善しうるのは、孔子がいった通り中人以上で、それ未満のよさしか持たない人々は、根本的に悪をなす存在でしかなく、助けられもしない。
私は悪女の救済というものを願っていた。それは共感力や道徳心の高さから、彼女らの産まれもっての愚かさに、深く同情していたからだ。だが接近すると私自身が彼女らに禍をなされるだけで絶対救いえない事が分かった。これが不動の現実で、元々、悪女というものは自ら地獄に進んで行くしかない者なのだ。
悪女に同情してはいけない。悪男についても同じだ。彼らは地獄に堕ちる目的で産まれてきている。救済方法はない。慈悲は慰めに過ぎず、抑悪人はそういった精神性を少なからず理解できない。つまりアガペーは、それを持つ側にとっての慰めに過ぎず、必ずしも救いに直結しない救世主願望の恩着せである。
芥川龍之介は寓話『蜘蛛の糸』で、ある種の真理を語った。その中で釈迦は悪人が自ら破滅していくのを救いえない。哲学者ベーコンが「慈悲に過剰はない」といったのは、いわば理想的な偽善を語っただけである。本当は、どれほど施しをした所で、人類の半分以下の人々は悪質で、どうしようもないのである。
裏を返せば、この世には相対的に優れて善美の人々がいて、そういった人々の間でしか高徳な人々は幸せでありえない。又この種の良さは飽くまで比較なので、現実に達成できる。
結局、賢明な人は人づきあいに極めて注意深くなり、万事劣った人物との交際を避け、相対的に優れた集団にいるしかないのだ。