2024年3月20日

教育の資源配分問題の一解答

大学進学率が東北より高い関西で、東北にはない部落差別がはびこっているのは、生まれつきの資質が違うせいだろう。この事は教育が生得資質を大きくは変えない重要な証拠かもしれない。
 顕著な落差として高い通塾率の大阪は全国学力試験平均学力が最低級だが、低通塾率の秋田は常々同学力が最高級だ。
 教育は過度に評価されがちだが、明らかに限界がある。東大やMIT、イェールなどを出ていながら、歳主義で集団虐殺を唱える心理病質だろう成田悠輔は人間性(人文学)や倫理観が致命的に劣る。逆に資質にまさる時、子夏が『論語』学而第一の七でいう様に、公的教育歴に関わらず優れた人格でありうる。
子夏曰「賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交言而有信。雖曰未學、吾必謂之學矣。」
――『論語』学而第一、七

子夏しかいわく「硬派に知恵を愛し求め、父母に仕えてよくその力をつくし、上司に仕えてよくその身をいたし、また朋友と交わっても言う事が信じられるなら、その人が世間的に学歴がなくとももう学んだ人なのだ、と私なら必ずいうだろう」
――同節の拙訳
 大阪に比べ秋田の少子高齢化は進んでおり、義務教育の現場で少人数教育が実現できているという要素を加味しても、恐らく生得的知能指数が両集団で違う可能性がかなりある。その為、資源として低知能集団へ多く教育資源を注いでしまい、全体として平均化という選択集中の逆の高等教育結果なのではないか。
 資本主義の範囲では自由競走の結果、生得資質にまさる人へ教育資源を配分できた側が競走優位に立つ筈だ。よって遠隔教育や無料の資料など、費用の最小な教育資源を普く提供しておく事が極めて重要と考えられる。
 私立校は顕示的消費の対象とみていいだろう。私立校への助成金はこの点で全く有害である。

 私が予てブログその他で主張してきた様スペンス符号理論は誤りで、現実には社会的総費用が顕示消費で増えてしまう。つまり進学率が高い事は決して経済を意味しない。逆に低進学率かつ低費用の教育資源が豊富で学習度が高い方が経済的である。同じく、資質の良い人への教育資源配分が経済的だと言えよう。
 教育は義務か普通の範囲では学力平均値の底上げを調整正義や福祉文脈で考慮されているが、有限の資源配分問題としての高等教育ではこの方式は寧ろ害がある。
 自由競走下では高い学習成果に達せる者が優れた成果を挙げる為、必要なのは教育資源の価格競走かつ学位制度と学閥の廃止又は無価値化だと言える。